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幾ら考えても、どうしてこうなってしまったのかよく分からない。
分かっているのは、槙島聖護という男が今のこの状況を楽しんでいるということだけだ。
なまえの苦悩や困惑すらも。


「おはよう」


軽くなまえの髪に触れて、槙島が言った。
寝起きだというのにその声は明朗になまえの耳に届いた。

「先にシャワーを浴びるよ」

隣にいた彼がベッドを降りたのを片方だけ沈んでまた戻ったベッドのスプリングと気配と音で知る。
完全に気配が消えてから、なまえは毛布という名の繭の中から出た。

少し迷い、それから寝室のドアを開けてリビングへと向かう。
この家の中での行動は、基本、自由だった。
“外”の情報を得る事も禁止されていない。

「…ニュースサイト」

なまえの小さな声に応じて、ニュースサイトからの映像がホログラムで出現する。
なまえはそれにぼんやりと目を向けた。

『今日の天気は雨。港区で予測される集団ストレスはレベル2。予防サプリの服用は必要ないでしょう』

無機質な女性の声が読み上げていく情報。
暫くそれに耳を傾けた後、なまえはため息をついた。

どうやら槙島は相当上手くやったようだ。
自分が行方不明者としてニュースになっていないのがその証拠である。
どうやってここに連れて来られたのか、と問われれば、ひたすら恥じ入るしかない。
なまえは自らこの家に足を踏み入れたのだ。

“こう”なる前、彼は友人だった。
少なくとも、なまえはそう思っていた。
同じ趣味を持つ仲間、と言い換えてもいい。
なまえは今では懐古趣味とさえ呼ばれる、紙媒体の書物の虜だった。
槙島もまた、同じく。
図書館で出会い、彼に声をかけられて、それから同じ趣味の持ち主であることがわかって。
誘われるまま、なまえは彼の招きに応じてしまった。
それ以来、この家から一歩も出ていない。
出られないのだ。

「何か面白いニュースはあったかい?」

槙島だった。
いつの間に浴室から出て来たのか、バスローブを纏った彼がソファの背に手をついてなまえの顔を覗き込んでいる。

「シャワーお借りします」

なまえは逃げるようにリビングから出て行った。
槙島がずっと目で追っていることに気付いていたが、振り返る事はしなかった。
古来より、何かから逃げる途中で後ろを振り返った人間がどうなったかを考えれば賢明な判断だったと言えるだろう。

熱いシャワーを浴びると、多少気持ちは落ち着いた。
脱衣所にあった自分用のバスローブを着て、着替えはどうしようかと考える余裕はあった。

結局、バスローブのままそっとリビングを覗いてみたところ、槙島はソファに座ってニュースを見ていた。
手には何かの本が開いたまま置かれている。
ニュースを眺める彼は、面白い本を読んでいる時の目をしていた。
女性の声が猟奇的な殺人事件があった事を淡々と伝えている。

私は殺されるのだろうか。

この家に監禁されて以来、何度も頭をよぎった考えが再び脳裏に浮かんだ。

「朝食を作ってくれないか。そうだな、今朝はトーストとヨーグルト、サラダもあるといいかな」

槙島の楽しげな美声が鼓膜を揺する。
なまえはぎくしゃくと頷いて、朝食を作るためにキッチンに向かった。

これではまるで新婚夫婦のようではないか。

頭に浮かんだ言葉を、そんなまさかと打ち消して。


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