台風が通り過ぎていった翌日、都心は暑い一日となった。
台風の名残でまだ風が強く、そのお陰で幾分涼しく感じたが、気温はかなり上がっていたようだ。

店の周りに何処からか枝やゴミが飛んで来ていたので、開店前の準備はまずそれらの除去と掃除から始まった。
そうしていつも通りの営業を終えようとしていた閉店間際の時間に彼は現れた。


「こんばんは、なまえさん」

夜の闇を具現化したようなその姿を目にした途端、反射的に身体がビクッとなってしまう。
でもこれは猛獣とか危険な生き物と遭遇した時の一般的な反応だと私は思っている。

全身に闇を纏った運び屋は真っ直ぐ私に近づいて来ると、白い手袋を填めた手を伸ばして私の目元に指で触れた。

「目が赤い。泣いていたのですか?」

「あ、いえ、これは玉ねぎを切ってたら涙が出ちゃって」

「ああ、なるほど」

赤屍さんは納得した風に頷いた。
チラ、とマスターに視線を流して、

「てっきりマスターに叱られるかどうかして泣かされたのだと思ったのですが、それを聞いて安心しました」

「俺も安心したよ。勘違いでコマギレにされるのはご免だからな」

サングラスの上の眉を八の字にしてマスターがぼやく。
パソコンは既に電源を落としてあり、今は新聞を読んでいたところだ。
ちょうどお客さんも切れたから、夏実ちゃんとレナちゃんは少し早めに掃除を始めていて、私は明日の仕込みを終えたばかりだった。

「赤屍さんはお仕事の帰りですか?」

「依頼人(クライアント)と会ってきた帰りです。貴女はそろそろ仕事上がりの時間でしょう?せっかくですから自宅まで送らせて頂こうと思いましてね」

「それがなまえ先輩を見た最後でした。まさかあんな恐ろしい事件に巻き込まれる事になるなんて知るよしもなかったのです…」

「ちょ、変なナレーション入れないでレナちゃん!」

「すみません、つい」

レナちゃんは悪びれた様子もなくにこにこしている。
分かってる。この子には悪気はないのだ。
時々無邪気に恐ろしい事を言ったりしたりするだけで。
それさえなければ彼女は可愛いウェイトレス仲間だった。

「大人しく一緒に来て頂ければ怖い事はしませんよ。可能な限り優しくして差し上げます」

「もうその台詞が怖いです」

私はちょっと震えた。
たぶん顔色も悪いはずだ。
銀ちゃんがいてくれればこの恐怖に共感してくれるのに。
同僚の女の子二人ときたら、「良かったですね!」「羨ましいです」なんて言ってきゃっきゃと盛り上がっている。
マスターはやれやれといった感じで笑っているだけで助けてくれそうもない。

「ほら、閉店時間だぞ」

「はーい!」

マスターに言われて夏実ちゃんがドアに駆け寄っていく。
表側に『CLOSE』の札が掛けられた。

「お疲れさまでした!」

「お疲れさん。次のシフトは明後日だな。遅れるなよ」

「はい、どうぞ」

素晴らしくよく気が利く年下の少女がロッカーから荷物を持ってきて渡してくれた。
それを受け取り、振り返れば、あの笑顔が私を待ち構えている。

「さあ、帰りましょう」

差しのべられる手を拒めない。
果たして今から『帰る』場所は私の家なのか。
それを尋ねる勇気もなく、私はビクビクしながら黒衣の運び屋の手に自分の手を乗せた。



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