眠りから目覚めて飛び起きた。

思わず声が漏れそうになった口を咄嗟に両手で覆って塞ぐ。
そうして手で口を押さえたまま、背を丸めるようにして掛布団に顔を伏せていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
同時に、ギシ…、と廊下を歩いて来る足音が聞こえてくる。
その気になれば気配も足音も無く歩けるのだと知っているから、これは間違いなく自分への配慮だ。
天音は有り難い思いで足音の主が障子を開いて入って来るのを待った。

「どうしたんだい?」

半兵衛からの柔らかな問いかけに、何とか微笑みを取り繕って返す。

「大丈夫です。何でもありません」

「本当に?」

「本当です」

半兵衛は天音の前に座った。眼差しで促され、仕方なく白状する。

「…嫌な夢を見てしまって……それで、ほんの少しだけ怖くなってしまったんですけど、もう平気です」


時折夢に見るあちらの世界は、どうしてか、いつも夕暮れ刻だった。

その夢の中で天音はバスに乗っている。
それは以前よく利用していた県営バスで、座席などのデザインや通り過ぎていくバス停も全て彼女の記憶にある通りのままだった。
一人掛けの座席に座って、見慣れた懐かしい景色を眺めている内にバスが止まる。
夕闇に沈みゆく中、遠くに見える我が家を見つけて、天音は堪らず駆け出していた。

しかし、辿り着いた家は真っ暗で人の気配はない。
誰もいない。
半兵衛も、皆も。
当然だ。
この家には今はもう誰も帰って来る人間はいないのだ、これから先もずっと。

そこでいつも目が覚める。


便利不便で言うならば、確かにこの世界は不便に感じる事のほうが多い。しかし元の世界に帰りたいとは思わなかった。
単純な話だ。
ここには半兵衛や皆がいるけれど、向こうにはいない。
向こうには親しい人々がいるし、安定した暮らしが出来るだけの金も仕事も家もある。
だが、それらが半兵衛の存在と引き替えにしても必要かと問われれば、諦めきれないというほどのものではない。

どちらかしか選べないから、天音は他の全てを捨てて、一番大切なものを選んだ。
けれども、ふとした拍子に、まるで隙間風が忍びこんでくるようにひやりとした不安が胸を襲うことがある。
それは例えば、この世界ではただの身寄りのない女でしかない自分は半兵衛のお荷物になっているのではないだろうかという不安だったり、もしも半兵衛の病が再発したらこちらの医療技術では助からないだろうという不安だったり、誰かに話したとしても杞憂だと笑われるような内容ばかりだったが、そんな時に決まってあの夢を見るのだった。

「あの遠い未来の異世界で、君は常に僕の傍にいて僕を護ってくれた」

半兵衛の優しい声音が耳を打つ。

「今度は僕が君の傍にいて、君を護るよ」

「半兵衛さん…」

「うん」

「…半兵衛さん、半兵衛さん…」

ゆるく抱き締められた拍子に危うく涙腺が決壊しかけた。
抱き締めてくる腕はあたたかい。
この人と生きていきたい、と天音は改めて心の底から思った。

「ずっと一緒にいて下さいね」

「ああ、勿論だ」

天音を抱き締めながら、半兵衛の唇が美しい月のような笑みを形作る。

「死んでも離さないよ、天音」


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