その男は先代から竹中家に仕えている家老であるらしい。
いわく、天音に武家の妻としての心得を説きにきたのだそうだ。


「万が一敵に捕まるような事があれば、辱しめを受ける前に舌を噛んで自害なされよ。それが武家の妻の覚悟というものでございます」

いかにも上から目線の口調と面持ちで偉そうにそう告げてきた男に、天音は冷静に説明した。
ただ単に舌を噛んだだけでは人間は死ねないということを。

『噛み千切った舌が喉に詰まって窒息死する』か、
『噛み千切った舌の傷から大量に出血し、その血が喉に詰まって窒息死する』か、
『噛み千切った舌の傷から侵入した雑菌による感染症で死に至る』
かのいずれかだ。

何かの弾みで舌を噛んでしまった時でさえ相当痛いのに、その激痛に加えて、窒息するまでのたうち回ることになるのだから想像を絶する苦しみである。

どんな状態になるか。

どれだけ苦しいか。

出来るだけ詳細に語って聞かせると、まさか口答えしてくるとは思わなかったらしく最初は渋い顔をして聞いていた男は、次第に顔色を無くしていった。

「ですから、いざという時にはこの懐剣を使おうと思っています」

淡々とした口調のまま、いざという時のために胸に忍ばせている懐剣を見せる。
それは半兵衛から護身用にと授けられたものだった。
だから天音も、これは自ら命を断つ為の道具ではなく、最後の最後まで足掻いて半兵衛の敵を一人でも多く斬りつけてやる為の武器だと認識していたのだが。
それをこの男に親切に教えてやる必要はないはずだ。

「そ、それならば良いのです」

男はぼそぼそと答えるなり、足早に立ち去ってしまった。

部屋の外に控えていた側仕えの女達にもその会話は聞こえていたらしい。
着物の袖で口元を押さえて笑いを堪えながら彼女達は教えてくれた。
あの男は一度も戦に出た事もなく、そのくせ女にばかり口煩く説教してくる嫌な奴だったのだそうだ。
何処の世界でもそういう輩はいるんだな、と天音はしみじみと思った。
まだ年功序列制度のある昭和色が色濃く残っている企業によくいるタイプのおっさんだ。

「御方様にやり込められた顔を見てすっきり致しました」

若い女中は爽やかな笑顔を天音に向けた。
年かさの女中は澄ました顔で、やはり同じように懐に忍ばせていた小刀を天音に見せてくれた。
彼女達のほうがあの男よりもよほど覚悟が出来ている。

戦に出る武人は言うまでもないが、その彼らの影で慎ましく生きる女達もまた想像以上に肝が座っているものだと天音は感じていた。

「天音様にはそれよりももっと大事なお役目がございましょう」

天音に茶を淹れた湯飲みを恭しく差し出しながら年上の女中が言った。

「そうでございますよ。半兵衛様のお世継ぎとなられるやや子を、皆楽しみにお待ち申し上げております」

ここは戦国乱世。
死が身近なものであるこの世界では、命の重みを誰もがよく知っている。
だからこそ、新しい命の誕生に期待をこめる気持ちも、尊敬する当主の跡取りの誕生を期待する気持ちもわかる。
わかるのだが。

「仲睦まじくていらっしゃいますから、きっとすぐに授かりますわ」

「そ、そんな…」

赤くなって俯いた天音に、女達は顔を見合わせて微笑ましそうに笑った。





「どうやら家老の一人が君に余計な事を言ったようだね」

その日の夕刻。
軍議を終えて戻ってきた半兵衛は、座って寛ぐ態勢に入りながらそう切り出した。
誰が彼の耳に入れたかなんて考えるまでもない。
どうやら思いきり顔に出てしまっていたらしく、天音の顔を見て半兵衛がくすくす笑う。

「彼は城内の雑事を取り仕切る才能はあるが、どうもお節介でいけない。僕からもよく言っておいたから、彼が言った事は気にせず忘れてくれ」

「…はい」

「嫌な思いをさせてすまなかった」

瞳を伏せた半兵衛に天音は慌てた。

「あ、謝らないで下さいっ!」

「許してくれるかい?」

「許すも何も、怒ってません」

「良かった。君に嫌われてしまったら悲しいからね」

「私が半兵衛さんを嫌いになることなんて絶対ありませんよ」

うん、と半兵衛が笑う。

それは美しいけれどもひどく儚げな微笑だった。

この人は“絶対”なんてあり得ないのだと考えているのだ。
期待して裏切られることを知っている。
願うだけではどうにもならないことを知っている。
絶望を知っている。

一体どれだけの失望を繰り返してきたのだろう。
どれくらい多くのものを諦めてきたのだろう。

いま自分に何が出来るだろうかと考えた結果、天音は彼に向かって両腕を差し伸べた。
男性にしては細く、しかし武人らしくしなやかな筋肉がついた彼の身体を抱きしめる。
優しい体温を感じながら自分の温もりを分け与えるようにぴたりと身体を寄せると、ふっと笑う気配がして、半兵衛の腕が天音の身体に回された。

「半兵衛さんは、秀吉さんを嫌いになることってあると思いますか?」

「僕が秀吉を?まさか。そんなことはあり得ないよ」

「絶対に?」

「勿論だ」

顔を上げて半兵衛を見ると、彼は紫色の瞳を少しだけ丸くしてぱちりと瞬かせていた。
天音の言いたい事を理解したらしい。

「ね?だから私も絶対です」

「…そうだね」

嬉しそうな、ほんの少し照れくさそうな笑みを含んだ返事とともに、天音を抱きしめる腕の力が強くなった。
ぎゅうと抱きしめられる。

「絶対に失われない想いや絆は確かに存在する……信じるよ。君が僕にそれを信じさせてくれるから」



その夜は互いの温もりを求めあって一つの床で眠った。

そして翌朝。女中にキラキラした物凄い笑顔で湯の入った桶と手ぬぐいを渡された半兵衛は首を傾げ、彼女達の笑顔の理由を知っている天音はいたたまれずに昨日と同じく赤くなって俯いたのだった。



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