「天音」

名前を呼ばれてハッと我に返ると、半兵衛の美しい顔がすぐ目の前にあった。

「どうしたんだい?心此処にあらず、といった感じだったよ」

答えられずに手元の湯飲みに視線を落とす。
中身は蜂蜜をお湯に溶いただけのものだが、ほのかな甘さが身体の芯まで染み通るようだった。

特に、こんな冷え込む日には。
半兵衛の見立てでは、午後にかけて急激に気温が下がり、雪が降るかもしれないということだった。
だから、城に戻る途中、この屋敷で休憩をとることにしたのだ。

「誰の事を考えていたのかな」

湯飲みを持っている手の上から半兵衛の手に包み込まれる。

「何も心配はいらない。難しく考える必要はないさ。前にも言った通り、君は僕の傍にいてくれればそれでいい。そうしてその知恵と知識を貸してくれればね」

「半兵衛さん…」

美しい唇が歌うように言葉を紡ぐ。

「安心したまえ。僕は約束を守る男だ」

約束。
半兵衛と天音は約束を交わしている。

全てが終わり、豊臣秀吉が天下統一を果たしたら、天音と共に生きるという約束を。
どうすればいいかはまだ分からないが、半兵衛を天音の世界に連れて帰って病気を治すのだ。
それを目標に今まで頑張ってきた。

天音が半兵衛に対してそうであるように、半兵衛がとる行動は、全部、すべて、何もかもが、秀吉一人のためのものだった。
秀吉に天下を獲らせるため。
秀吉に天下を獲らせるのに必要な、強く優れた軍を作るため。

天音を天女だと勘違いている兵や民達の誤解を解かないのも、そうしたほうが豊臣にとって都合が良いからに他ならない。
天音に優しくするのも、単なる好意からのものではない。
そうして手懐けておけば、豊臣軍のため、秀吉のために動かしやすいからだ。

(大丈夫。ちゃんと分かってる)

そんなこと、最初から分かってる。

分かっているのなら、何故自分に言い聞かせるような真似をしてしまうのか。
その理由も本当は解っていた。

幸いにも泣き出してしまうことはなく、瞳の端に涙が滲んだくらいで済んだため、天音はそれを指で拭って気合いを入れ直した。

いつも通り振る舞わなければならない。
弱気になっているところなど半兵衛には見せられない。
勘が鋭く、ひとの表情を読むことに長けた彼に気付かれてはいけない。

豊臣に弱い人間は要らないのだ。


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