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「ううー…冷た〜」

氷のように冷たい桶の水に浸して洗った雑巾を絞り、水気を切る。
その動作は数回繰り返しただけで手はすっかりかじかんでしまっていた。

なまえははあっと手に息を吹き掛けると、再び雑巾で廊下を拭き始めた。

現在この城の主人である光秀はいない。
安土城で行われる祝宴に赴いているため留守なのだ。
そのせいか、城内がいつもより穏やかな雰囲気で満たされている気がする。

長い廊下を幾度往復しただろうか。
端まで拭いて一息ついたとき、背中に何かがのしかかってきた。
というか、後ろから抱きつかれた。

「ひっ…!」

「おや、冷たい」

温かいと思ったのですが、と呟いた声は、安土城にいるはずの光秀のものだった。
癖のない長い銀髪が首筋や頬に当たっている。
背中に覆い被さった光秀は、床についたままのなまえの手の上から自分の手を重ねた。
大きくて固い手だ。
この手が鎌を握り、容赦なく人々の命を刈り取るのだと思うと、背筋がゾクリと震えた。

「光秀様……! 信長様の祝宴に行かれていたのではなかったのですか?」

「先ほど戻ってきたばかりです」

身じろぎしたなまえの腹に光秀の腕が回り、引き起こす。
幼い子供にするように頭に手を添えて胸に抱き寄せられた。

「子供のお守りはもう飽きました」

「蘭丸様ですね」

くすくす笑えば、笑い事ではありませんよと溜め息とともに返された。

「どうせなら公が相手をして下さればいいのに。血みどろの宴ならば喜んで長居したでしょう。私も鎌の振るい甲斐があるというものです」

「お正月から物騒なことを仰らないで下さい」

なまえは苦笑してさりげなく身を離した。

「濃姫様はお元気でしたか」

「ああ、そういえば貴女は帰蝶のお気に入りでしたね。ええ、元気そうでしたよ」

言いながら光秀が立ち上がる。
なまえの背後から急いでこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。

「光秀様!」

「おや、見つかってしまいましたか」

慌てた様子でやって来た家老に視線を向けた光秀が丁度良かったと笑う。

「あれを。支度を終えたら私の部屋に連れてきて下さい」

「は」

頭を垂れた家老が一瞬気の毒そうな眼差しでなまえを見た。
どうやら何かされるらしいと悟ったなまえは若干顔を青ざめさせて光秀を見上げたのだが、主は機嫌良さそうに微笑んでいる。

「貴女のために打掛と小袖を用意させたのですよ。正月くらい着飾りなさい。美しく装った貴女はさぞ美味しそうなご馳走になるでしょうね」

青ざめていたなまえの顔が赤くなり、また青くなった。



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