※花浜匙の箱庭の夏油ルート
※生存if



深い深い暗闇の底から気泡がゆっくりと上がっていくように、緩やかに意識が覚醒していく。
緩慢なまばたきを繰り返し、見知らぬ天井をぼんやりと眺めながら、私はようやく自分が深い眠りの淵から覚醒したのだと自覚した。

「……なまえ?」

聞き慣れていたものよりも少しだけ低くなった美声。
それが聞こえたほうに顔を向けると、信じられないといった風な表情を浮かべた端正な顔立ちが目に入った。

「すぐる、くん」

呼びかけた声は自分でも驚くほど掠れていて弱々しかった。
どうして、と不思議に思うより早く、大きな身体が覆い被さってきた。誰って傑くんだ。

「良かった……本当に良かった……」

ちょっと苦しかったけど我慢した。何故かはわからないけど、傑くんの様子から彼にとても心配をかけてしまっていたらしいことがわかったから。

「君は十年間ずっと眠り続けていたんだ。肉体の時を止めたまま」

身体を少し離して、私の顔を至近距離から見つめながら傑くんが言った。
時を止めたまま十年間ずっと眠り続けていた?
言われてみれば、傑くんは私の知っている傑くんだけど、その姿は私の知る彼よりもずっと大人になっていた。
すっと通った鼻筋に、涼しげな切れ長の目、笑みを湛えた形の良い唇。
学生時代よりも長くなった黒髪はハーフアップにされていて、頬から顎にかけてのラインがシャープになっている。
学生の頃から大人っぽかったけど、実際にこうして大人の男の人になった傑くんは妖艶とさえ言えるほど色気がありすぎて、とてもじゃないが直視出来ない。

「なまえ?」

目を泳がせた私に不思議そうに傑くんが呼びかけてくる。
そうだ、思い出した。私は任務中に呪霊の攻撃から非術師の人を守ろうとして……それからの記憶がない。

「傑くん、私が守ろうとした人は?」

「あの猿……非術師なら無事だよ」

猿?いま、猿って言った?

「君が目覚めてくれて良かった。もしも、あのまま君が目覚めなかったら、私は取り返しのつかないことをしでかしていたかもしれない」

私の手を固く握りながら傑くんがまるで苦いものを吐き出すような口調で言った。

「硝子を呼んでくるよ。少し待っていてくれ」

「う、うん」

「でも、その前に」

傑くんの唇が優しく私の唇に重ねられる。
それは二人にとって十年ぶりのキスだった。

「おかえり、なまえ」

「ただいま、傑くん」

それからは慌ただしかった。
美人さんに成長していた硝子ちゃんに身体中チェックされて、脳波などを調べるためとかで色々な検査を受けた。
結果は異常無し。
五体満足のお墨付きを貰った私は、翌日にはもう退院出来ることになった。
私はてっきり寮に戻るのだとばかり思っていたのだが、傑くんのマンションに連れて行かれることになってしまった。

「卒業したら一緒に暮らそうと話していただろう?君がいつ目覚めてもいいように準備をしてあるから心配はいらないよ」

嬉しそうな傑くんにそう言われては断るわけにもいかない。
こうして私はいきなり同棲というハードルを飛び越える羽目になったのだった。

「車椅子を用意しましょうか?」

「いや、私が車まで運ぶから構わないよ」

そう告げた傑くんが私を毛布でくるんで軽々と抱き上げる。お姫様抱っこだ。
嬉しいけど、みんなに見られているから恥ずかしい。
五条くん、ニヤニヤしながら見ないで。

「寒くないかい?」

「大丈夫」

私は制服ではなく傑くんが用意してくれた服に着替えていた。
オフホワイトのハイネックのニットに、チョコレート色のロングスカート。どちらもとても暖かい。

車での移動も傑くんがあれこれと気を遣ってくれたのでとても快適だった。
昔から紳士だったけど、更に磨きがかかっている。過保護なくらいに。

「じゃあ、傑くんはいま高専で先生をしているの?」

「そう、悟と一緒にね」

五条くんが教師……想像出来ない。
でも、二人とも特級呪術師として任務をこなしながら教師もやっているなんて大変そうだ。

車が到着した先は、物凄く高そうなマンションだった。
傑くんが指紋認証で開けてくれたドアの向こうには、広々とした部屋が広がっていた。

「お腹がすいただろう。何か作って来るからテレビでも見て待っていてくれ」

私をソファに降ろして暖房を入れると、傑くんはキッチンへと歩いて行った。
言われた通り、リモコンでテレビの電源を入れる。

大きな画面の中ではサンタクロースの格好をしたリポーターがクリスマスの街の様子を実況していた。

私が目を覚ましたのが昨日、2017年のクリスマスイヴの日没直後だったから、今日がクリスマス当日なのは当たり前なのだが、私は困っていた。

「プレゼント用意出来なかった……」

「君が目覚めてくれて、私の側にいてくれることが何よりのプレゼントだよ」

振り返ると、手にトレイを持った傑くんが微笑んでいた。
手際よくテーブルに料理を並べていく。
ベーコンとそら豆のクリームパスタに、エビとブロッコリーのサラダ。どれも美味しそうだ。

「おいで」

傑くんがソファに座り、私を脚の間に座らせる。
傑くんの顔がうなじに埋められたと思うと、チリッとした痛みが走った。

「傑くん?」

「ん?」

「何してるのかなって」

「私のものだという印をちょっとね」

お腹の辺りで組み合わせられていた手がほどかれ、私の左手を恭しく持ち上げる。
人差し指で薬指をつつ……となぞられ、耳元で吐息混じりに小さく笑う気配に背筋がぞくっとなった。

「メリークリスマス、なまえ。明日は一緒に出かけよう。この指に永遠に外れないクリスマスプレゼントを嵌めてあげるよ」


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