※夏油生存教師if



高専の授業は大きく分けて座学と実技から成り立っている。
座学では一般科目と呪術に関する知識を学び、実技では呪力の操作から始まって術式を用いた実戦、そして、基礎体力の向上を目指した基礎トレーニングと体術の訓練が行われている。
今日も念入りに柔軟をした後で、勾配のある敷地内を走り込み、更にストレッチをした後で体術の訓練に入ったのだが、これがまた大変なのだった。

「君は硝子と同じ反転術式の使い手だけど、念のため最低限自分の身を守れる程度には鍛えておかないとね」

体術の講師である夏油先生のことは大好きだけど、先生の稽古は正直きつい。
学生時代から格闘技が趣味だったというだけあって、夏油先生はめちゃくちゃ強い。
夏油先生に勝てるのはたぶん五条先生だけだろう。
そんな先生に直々に稽古をつけてもらえるのは実に有り難いことなのだが、正直とてもきつい。

「よし、今日はここまでにしておこうか」

夏油先生がそう言ってくれるまで、無限に近い時間容赦なく転がされまくった気がしていたのに、実際には二時間も経っていなかったと知って愕然とする。

「大丈夫?立てるかい?」

夏油先生が差し伸べてくれた手に自分の手を重ねると、その手を握られてぐいと引き上げられた。

「ありがとうございました」

「どういたしまして。確実に良くなってきているよ。自信を持っていい。この後は硝子のところ?」

「はい」

夏油先生に体術の稽古をつけてもらっているように、硝子さんには反転術式の訓練の傍ら、医術の勉強を教えてもらっているのだ。
将来的にはこの高専の校医として硝子さんと一緒に働きたいと思っている。

「それが終わったら私のところにおいで。勉強を見てあげよう」

「わ、ありがとうございます!嬉しいです!」

「ふふ、なまえは素直で可愛いね」

じゃあ、また後で、と笑顔で片手をあげる夏油先生に一礼して、医務室に向かって駆け出す。
顔が赤くなっているのに気付かれなかっただろうか。危なかった。
夏油先生の優しい言葉は時々心臓に悪い。物凄く悪い。

「あのクズに何かされなかったか?」

「硝子さん、クズはひどいです」

思わず苦笑してしまう。
医務室に入ると、待っていてくれた硝子さんが開口一番そんなことを言い出したので。

「夏油先生は優しくて良い先生ですよ」

「お前に対してはな」

そんなことを言われると勘違いしてしまいそうになる。自分は夏油先生にとって特別な存在なのではないかと。

「気をつけろよ。優しく見えてもあれは五条と同じクズだ。ヤバいやつだぞ」

「硝子さんが言うと説得力があるなあ」

「まあ、付き合いだけは長いからな。さて、そろそろ始めるか」

「はい、よろしくお願いします」

その後、夏油先生との稽古で出来た擦り傷を反転術式で治しながらアドバイスを貰ったり、治療が終わった後は医術について教えて貰った。

医務室を出た私は一度寮に戻ってシャワーを浴びた。
それから、替えの制服に着替えて夏油先生がいると思われる職員室に向かった。

「傑?さっき出て行ったけど、何か約束してたの?」

「あの、勉強を見て下さるって」

「僕が見てあげようか?って、余計なお世話だったね。ごめんごめん」

「もう、五条先生!」

「あはは、なまえは可愛いねえ。傑ならたぶん自販機のほうじゃないかな。行ってごらん」

「はい、ありがとうございます」

まだニヤニヤしている五条先生にお礼を言って、私は自販機が並んでいるコーナーに向かった。

高専の貴重な水分補給場所であるここには四つの自販機が並んでいる。
夏油先生の姿は無かったけど、話し声が聞こえた気がして建物の裏側に回り込もうとした時、夏油先生と硝子さんがいるのが見えた。
声をかけようとして立ち止まる。
ちょうど夏油先生が硝子さんが咥えた煙草にライターで火をつけてあげているところだった。
それがとても自然な感じで、美男美女の二人はとてもお似合いに見えた。

なるべく音を立てないようにその場から離れて、充分距離が出来たところで一気に駆け出す。

──ああ、私はやっぱり子供だ。
こんなことでショックを受けてしまうような幼稚な子供なんだ。こんな子供を夏油先生が相手にするはずがない。
少しでも期待してしまった私が馬鹿だった。一人で勝手に舞い上がって一人で勝手に落ち込んで……本当に馬鹿みたいだ。

無心で走ったので、どこをどう走ってきたのかわからなくて一瞬焦ったが、どうやらまだ高専の敷地内のようだ。
ただ、さっきまではなかったはずの濃い霧が出ていて辺りが見渡せない。

「……そこに誰かいるのか?」

霧の向こうから警戒している声が聞こえてきたが、その声の主をよく知っていたので安堵するのと同時に複雑な気持ちになった。

「私です、夏油先生」

「……先生?」

現れたのは、夏油先生だけど夏油先生じゃなかった。
私が知っているよりも少しだけ背が低く、髪を一つに結い上げて高専の制服を着ている。

「夏油先生、じゃない?」

「私は夏油傑だよ。君は誰だ?高専の制服を着ているけど、見たことがない」

「本当の本当に、夏油傑さんなんですか?学年は?」

「二年」

彼はまだ警戒したままの口調で答えた。
やっぱりそうか。この人は

「十年前の夏油先生……?」

「は?」

思いきり不審そうな目で見られてしまったが無理もない。私だっていまの状況が信じられずにいるのだから。

「これ見て下さい。あ、これはスマートフォンと言って、私の時代では携帯電話に代わってこのスマホが主流になっているんです」

私がスマホを操作してアルバムにあった夏油先生とのツーショット写真を見せると、夏油先生……じゃなかった、夏油さんは絶句していた。

「フェイク画像、ではなさそうだね。となると、君は十年後から来たのか」

「たぶん、この霧のせいです。微力の呪力を感じます」

「信じ難いな。悟がいれば呪力の流れが視えるんだろうけど」

「そうですね。五条先生の六眼なら」

「ちょっと待ってくれ。悟が先生?」

「はい、お二人とも高専の教師です」

「今日一番の信じられない事態だ」

それから私達は情報交換がてら色々な話をした。
夏油先生に体術を習っていること。
硝子さんから反転術式を学んでいること。
夏油さんは暫く沈黙した後、やはり信じられないと呟いた。

「私が未だに呪術師をしていることが信じられない。まだ猿の……非術師のために呪術師が搾取され続けているのをよしとしていることが信じられないんだ」

夏油さんは星漿体を守る任務に失敗したこと、その件で非術師を守る使命に疑問を持ち始めたことを話してくれた。

「夏油先生も随分悩んだみたいでした。でも、だから、高専の教師として生徒を鍛え上げて強い呪術師にしてくれようとしているんだと思います」

「…………そうか」

夏油さんは項垂れて黙り込んでしまった。
痩せている、と思ったのはやはり気のせいではなかった。きっとずっと独りで悩み続けていて、食事もまともにとれていないのだろう。
私は堪らなくなって夏油さんの身体を抱き締めた。

「大丈夫。あなたはちゃんと自分自身で信じる道を見つけられるはずです。でも、独りで悩まないで。五条さんや硝子さん、夜蛾先生に気持ちを打ち明けて下さい。あなたは独りぼっちじゃないんですから」

「…………ああ、そうだね。そうかもしれない」

夏油さんが淡く微笑む。
その瞳からは完全に警戒心は消え失せていた。まだ迷いはあるみたいだが、もう大丈夫だろうと思えた。
霧が少しずつ晴れてきている。きっとそろそろお別れの時間だ。

「未来で待っていますね、夏油先生」

「待ってくれ。君の名前は?」

「なまえです。先生のことが大好きな苗字なまえです」

どうか道を間違えないで。私の知っている未来にたどり着いて。
そう願いながら身体を離し、ゆっくりと歩き出す。

「必ず探し出してみせる!必ず逢いに行くから、その時は……!」

まるでぷつんと糸が断ち切られたように声はそれきり聞こえなくなってしまった。
霧は完全に晴れて、下のほうに校舎が見える。
私も帰ろう。

そう思った時だった。

「おかえり、なまえ」

「夏油先生……」

さっきまで夏油さんがいたはずの場所に夏油先生が立っていた。

「逢っていたんだろう、昔の私に」

「えっ」

「君に逢えるのを楽しみにしていたんだ。ずっと、それを心の支えにして生きてきた」

夏油先生が私の頬に触れる。大きな手が感触を確かめるように頬を撫で、切れ長の瞳は優しく細められていた。

「君を愛している。十年前のあの日からずっと、私の心は君だけのものだ」

先生の顔がゆっくり近づいてきて、あやすみたいに優しくキスをされる。差し入れられた舌から必死に逃れようとしたけど、すぐに器用に動く蛇のようなそれに絡め取られてしまった。
舌と舌が触れ合う卑猥な感触に頭が沸騰しそうだった。

「参ったな。卒業まで待つつもりだったのに」

全然参っていない声音で、むしろ楽しそうに夏油先生が言った。
はくはくと息をするのがやっとな私の濡れた唇を指で撫でながら、夏油先生があでやかに微笑む。

「私を本気にさせた責任はとって貰うよ」

「せ、責任?」

「そう。君の一生をかけて償ってくれ。私の可愛いお嫁さんとしてね」

返事は「はい」以外受け付けないよ。
そう言って再び私にキスをした夏油先生は、硝子さんの言った通り、確かに気をつけなければいけないヤバい人だったようだ。
しかし、もう手遅れな気がして仕方がない。色々な意味で。


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