「お兄ちゃん、起きて」

出来るだけ優しい声で呼びかけてみるが、閉じられたままの目蓋はぴくりとも動かない。よほど疲れているのだろう。何だか起こすのがかわいそうになってきた。
少し遅い冬休みをとって帰省している兄には、出来るだけ寛いでいってほしい。

台所では母が朝食の支度をしている。
疲れているみたいだからもう少し寝かせてあげようと言いに行くべきだろうか。
迷っていると、「ん……」と小さな声が聞こえた。
息を潜めて見守る私の前で、緩やかに目を開けた兄がゆっくりと身を起こす。

「おはよう」

少し掠れた甘い美声に、柔らかな微笑み。
未だ夜の空気を纏わせたまま気だるげに長い黒髪をかき上げる姿は凄絶に色っぽい。
と言っても女性的というわけではなく、あくまでも男性としての色香である。
これに落とされる女の子は星の数ほどいそうだななどと余計なことを考えてしまうくらいに、寝起きの兄は十五歳という年齢にあるまじき色気に満ちていた。

「おはよう、お兄ちゃん」

「ん、おはようのキスはしてくれないのかい?」

「そのサービスは別料金になっております」

「言い値で払うよ」

そう言いながら私の腰を抱き寄せて唇にキスをしようとしたので、慌てて手でガードする。

「く、口はだめ!」

「どうして?」

「私達、兄妹なんだよ」

「本当の兄妹じゃない。それに、私が高専を卒業したら結婚するのに今更だろう」

「またそんなこと言って」

「私は本気だよ」

兄が本気なのは良くわかっている。だからこそ、私も本気で悩んでいるのだ。

今から十年前。冷たい雨が降っていた冬のある日、私は両親を事故で喪った。
葬儀の後、母の親戚だった夫婦に引き取られたのだが、二人はとても優しくて、私を実の娘のように可愛がってくれた。
何より、私は新しく出来た「お兄ちゃん」にべったりだった。
というのも、この義兄は私と同じ「見える人」だったからである。

「大丈夫。あれは目を合わせなければ襲ってはこないよ」

呪霊の中でもそこら辺にはびこっている雑魚呪霊である蝿頭にさえ怯える私を、兄はいつも抱き締めて安心させてくれた。

ところで、生まれ変わりというものを信じるだろうか。
こう言うと危ない人に聞こえるかもしれないが、私には前世の記憶がある。
その記憶によると、私の兄は二年後には大勢の人を殺して呪詛師に堕ち、両親をも手にかけることになる。

兄の名前は、夏油傑。
十二年後のクリスマスイブに百鬼夜行を決行したのち、親友である五条悟の手によって命を絶たれる、史上最悪の呪詛師と呼ばれた男である。

もちろん、現在高専一年生の兄にはまだその片鱗もない。高い理想を持ち、非術師のために呪いを祓う高潔な呪術師のままだ。
だから、私は何としても今生においては兄の呪詛師堕ちを防ぐ所存でいた。

お兄ちゃんは必ず救ってみせる。
絶対に死なせないし、メロンパンなんかに身体を渡したりしない。絶対にだ。

ああ、でも、なんて果てしない茨道なのだろう。成さんとすることの想像を絶する困難さを思うだけで身体が震えてくる。

「なまえ?」

「あ、ごめんね。ちょっと寒いなあって」

「相変わらず寒がりだね。布団に入っても構わないよ」

「えっ」

「ほら、おいで」

掛け布団を捲って誘ってくるお兄ちゃん。
私は迷った末におずおずと歩み寄った。

「じゃあ、ちょっとだけ」

言うが早いか、手を掴まれて布団の中に引っ張り込まれる。
さっきまで兄が寝ていたから、布団の中はぬくぬくとしていてとても温かい。

「寒いから冬は嫌いかい?」

「ううん。お兄ちゃんのお誕生日があるから冬は好き」

「なまえは本当に可愛いね」

後頭部を大きな手に包み込まれるようにして顔を寄せてきた兄にキスをされる。
抵抗する暇もなかった。

「だ、だめって言ったのに……!」

「ふふ、ごちそうさま」



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