ちょっとお腹回りのお肉が気になり始めたので、三ヶ月前からジムに通っている。
腹筋メインに水中ウォーキングなどを淡々とこなす日々だが、良いこともあった。
素敵な人とお知り合いになれたからだ。

お名前は七海建人さん。

元は証券マンだったそうだが、いまは守秘義務の厳しい危険なお仕事に就いているらしい。大変だけどやり甲斐のあるお仕事のようで、サラリーマンだった頃よりも毎日が充実していると話していた。
波乱万丈な人生を送ってきた人特有の雰囲気があるのもそのためかもしれない。
また、母方の祖父がデンマーク人だということで、淡い金髪に綺麗な色の瞳を持つクォーターらしい顔立ちであるところも魅力のひとつだと思っている。
少なくとも、私の周りにいる男性達とは考え方も仕事に対する姿勢も何もかも全然違う。
そんな七海さんに惹かれるのは当然と言えば当然のことだった。

私はと言えば、どこにでもいるごく普通の社会人だ。七海さんのような魅力的な男性と知り合えたのは運が良かったとしか言い様がない。
だから、告白してお付き合いをしたいとか、そういう気は全くなかった。

「もうすぐバレンタインだね」

聞こえてきた声にドキリとなる。

「もうチョコ用意した?」

「チョコは買ったんだけど、一緒に渡すプレゼントをどうしようかと悩んでるとこ」

トレーニングを終えた後、シャワーを浴びてロッカールームで着替えていたのだが、先に来ていた若い女性二人が話していたのだ。私もまさに同じことで悩んでいたので、つい聞き耳を立ててしまう。

「田中さんのどこがいいのかわかんない」

「強いて言うなら、人のものってとこかな」

「なるほどわからん」

略奪愛のようだ。世の中には色々な人がいるんだなあ。

「ネクタイなんかどうかなって。毎日のように身に付けるものだし、なんかマーキングって感じがしてよくない?」

「えー、そう?」

ネクタイか。そういえば七海さんも仕事帰りにジムに寄った時はお洒落な柄のネクタイを締めていたから、日常的にネクタイを身に付けている仕事なのかもしれない。

善は急げということで、私はジムの帰りにネクタイを買いに行った。
老舗デパートの中にあるフランスの名門のネクタイ売り場で散々悩んだ末に、上品なボルドーのネクタイを買うことにした。

あとはチョコをどうするか。
手作りは衛生的な面で嫌がる人もいるし、ただジムで知り合ったというだけの関係でいきなり手作りはハードルが高い。
やっぱり無難に専門店で買うのがいいかな。
気合いが入り過ぎず、それでいてそこそこに高級なチョコ。
いつもお世話になっています、と渡すのにはそれくらいが丁度いい。

雑誌やテレビで人気のショコラティエのそれなりに良いお値段がするチョコを買って帰り、準備は万端。あとは渡すだけとなったある日のこと。

仕事帰りに偶然、街中で七海さんを見かけた。
綺麗な女の人と親しげに話しながら歩いているのを見てしまった。

気がついたら自分の家にいた。どこをどうやって帰ったのか記憶がない。
そんなにもショックを受けたという事実がショックだった。

翌日、私はジムを退会した。

一緒にいた時は彼の周りの人間に嫉妬ばかりして苦しかったけど、離れてみたら驚くほどすっきりした。やはり私には恋愛は向いていなかったのだろう。

告白するわけじゃないからと、所詮釣り合う相手じゃないからと、最初から予防線を張って、傷つかないようにしていた。
当たって砕ける勇気もなかった臆病者には相応しい結末だ。

「チョコ、もったいなかったな」

せっかく買ったのに渡せなかった。この際だから自分で食べてしまおうとお茶を淹れる準備をしていたら、玄関のチャイムが鳴った。

「突然お訪ねしてすみません。七海です」

「な、七海さん!?」

思いもよらない訪問者に、私は完全にパニック状態に陥っていた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
とにかくドアを開けなければ。
緊張で震える手で鍵を開け、ドアを開く。

「こんにちは。お久しぶりですね」

「こ、こんにちは」

「ジムを辞めてしまわれたと聞いた時は驚きました。何かあったのですか?」

「あ、いえ、目標体重にはいっていたのでもういいかなって」

すらすらと嘘が言える自分に驚きつつ、あり得ないほどばくばくと鳴っている心臓が苦しい、などと考えていた。

「あの、今日は何かご用で?」

「はい。これを渡しに来ました」

七海さんが紙袋を差し出してきたので反射的に受け取ってしまった。

「……チョコ?」

それは有名なチョコレート専門店のロゴが入った紙袋だった。

「それと、これを」

七海さんが続いてそっと差し出したのは、スノードロップの花だった。

「祖父の祖国では、バレンタインにはこの花を贈る習慣がありまして。いえ、これでは何のことかわかりませんよね」

七海さんの顔と花を見比べていると、七海さんがつと眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

「あなたのことが好きです。私と、将来を見据えた正式なお付き合いをして頂けませんか」

「ええっ!?」

「やはり、駄目でしょうか」

「だ、だめじゃないです!」

気がつくとそう答えていた。

「あの、でも、七海さんはお付き合いしている方がいらっしゃるのでは」

「そんな女性がいたら、こうしてあなたに交際を申し込んだりはしません」

じゃあ、あの時のは彼女さんじゃなかったのか。でも、美男美女でお似合いだった。
そう考えてまた胸が痛んだ。

「信じられませんか?」

「い、いえ」

とにかく、立ち話もなんなのでと中に入ってもらうことにした。
失礼します、と礼儀正しく挨拶をした七海さんをソファまで案内して、チョコとネクタイが入った紙袋がそこにあることを思い出して慌てる。

「あ、あの、これは、七海さんに」

「私に?」

「その……バレンタインの贈り物です」

「用意して下さっていたのですね。ありがとうございます」

嬉しそうな七海さんにプレゼントを差し出して、お茶を淹れに逃げようとしたのだが、腕を掴まれて止められてしまった。

「抱き締めても構いませんか?」

「そ、それはっ」

もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
どうしてこんなことに。
あわあわする私を、優しく、だけど逃げられないようにしっかりと七海さんが抱き締めてくる。

「今からそんな風ではこれから困りますよ」

穏やかな、愛おしむような声音で言った七海さんがそのまま耳朶に唇を寄せる。
いまでさえもう頭がパーンしそうなのに、これ以上なんて無理無理!

しかし、紳士な大人の男性である七海さんは、それからゆっくりと時間をかけて私の心を解きほぐしてくれたのだった。



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