仕事を終えた帰り道、土曜日なのに休日出勤をさせられた上に年度末調整なども重なってこんな時間まで働き詰めだったため、私は完全に疲れきっていた。
転職の二文字が頭をよぎる。

思えば後悔ばかりの人生だった。

初めて出来た彼氏の家に遊びに行った時には、何か適当に作ってと言われたので、冷蔵庫の中の有り合わせのものでチャーハンと中華スープを作ったら貧乏くさいとドン引きされてフラれてしまったことはまだ記憶に新しい。

両親は夫婦仲こそ良かったが、子供に関心の薄い人達で、子育てを終えたいまはもはやお役目御免とばかりに二人で田舎に引っ越して悠々自適なセカンドライフを送っている。
私からもっと積極的に関わりを持つべきだったのかどうか、今ではそれさえもよくわからないままだ。

やはり、ここは心機一転、転職すべきかもしれない。
そして新しく人生をやり直すのだ。

そう考えた時だった。
地下鉄へと降りる階段を踏み外したのは。
足先が空をきったと思った次の瞬間にはまっ逆さまに落ちていっていた。

でもおかしい。落ちながら階段にぶつかることもなければ、一向に階下に叩きつけられる気配もない。

「えっ」

閉じていた目を開けると、私は真っ暗な空間を落ちていた。
いや、完全な闇ではない。真下に破れたような裂け目があり、その向こうには夜空が広がっていた。

「ま、待って待って!」

あっという間にその裂け目から空へと落下していき、私は焦った。下には東京のものと思われるビル群が見える。このまま落下し続ければ待っているのは死だ。

「た、助けて!」

「いいけど、君、何者?」

聞こえるはずのない返事が聞こえたと思ったら、続けてどっと身体に衝撃が走った。
ほんの一瞬だが、呼吸も止まっていたと思う。
私は、黒い服を着た男の人の腕の中にいた。この人が私を抱き止めてくれたのだ。
問題は、その人が私を抱き上げたまま空中に浮かんでいるということだった。

「あれ?助けてあげたのにお礼も無し?」

「あ、すみません。ありがとうございました」

社畜のサガで謝罪の言葉はすんなり出てきた。こんな状況だというのに、男性のほうは実にノリが軽い。軽薄と言ってもいいのではと思う態度である。
彼が命の恩人でなければ、そしてこんな状況でなければ、きっと知り合うことさえなかったであろう人物だ。

「ここじゃなんだし、とりあえず下に降りようか」

その意見には大賛成だった。こくこく頷く私に、黒いアイマスクで目隠しをした男の人は口元だけで笑うと、静かに下へと降りて行った。

「はーい、到着」

手近なビルの屋上に着地した男性は、私をそっとコンクリートの上に降ろしてくれた。

「で、なんであんなところに──」

言いかけた男性が口をつぐみ、おもむろに目隠しを指で引き下ろした。
あらわになった彼の素顔にどくんと心臓が跳ね上がる。この世にこれほどまでに美しい顔が存在したのかと感動に打ち震えてしまう。それほどの美だった。特に、その瞳はまるで青く煌めく宝石のようだ。

「綺麗だ」

陶然とした声音で彼が呟く。

「黄金色の呪力が身体中を巡ってて、キラキラ輝いてる」

そう語る彼のほうがよほどキラキラ輝いて見えて綺麗だったが、私は賢明にも口を閉じていた。

「君みたいな女性は初めて見たよ。本当に何者?」

私は自分の身に起こったことを洗いざらいぶちまけた。地下鉄の階段から落ちたら真っ暗な空間で、そこの裂け目から出たら東京の上空だったということを彼に話して聞かせた。

「あー、そういうことね。了解。把握したよ。ごめん、それ僕のせいだ」

「えっ、どういうことですか?」

「聞いたら引き返せなくなるけどいい?」

私は頷いた。こうなった原因があるというなら知りたかった。

「呪霊を祓うのに、ちょっと悪ノリして『ムラサキ』使っちゃったんだよね」

彼の説明はこうだった。
この世界には、人の負の感情から生まれる呪いというものが存在している。
彼は密かにそれらを祓っている呪術師なのだと。
そして、彼の術式のせいで次元に裂け目が生じて私の世界と繋がってしまい、タイミングの悪いことに私がそこに落ちてしまったのだろう、と。

「今回の件は完全に僕のせいだから、責任をもって君の面倒を見てあげるから安心してよ」

実に軽い感じで彼が笑う。

「僕の名前は五条悟。悟くんでいいよ」

「苗字なまえです。よろしくお願いします、五条さん」

「うん、心の壁を感じるねえ」

苦笑しながら五条さんが差し出した手を握ると、その手があまりにも男性らしいゴツゴツした感触の大きな手だったので驚いてしまった。

「ま、これは今すぐにどうこうってわけじゃないけど、君には是非その呪力を生かして手伝って貰いたいんだよね。ゆくゆくはってことでさ」

「私でも人の役に立てるのなら」

私ははっきりとそう答えていた。
これはきっと神様がくれたチャンスだ。
生まれ変わったつもりでもう一度人生をやり直そう。今度こそ誰かに必要として貰えるような人間になるんだ。

「これからよろしく、なまえ」

大きなお月さまをバックに微笑む五条さんはあまりにも美しくて、神秘的で。私には神様のように見えた。

その神様みたいな人と紆余曲折を経て結ばれることになるなんて、もちろん、この時の私は知るよしもなかった。


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