小さい頃、夏休みになるといつも父方の祖父母が住む田舎に泊まりがけで遊びに行っていた。
山あいにある豊かな自然に囲まれた村で、都会では出来ない体験が出来る上に、祖父母のことが大好きだった私は夏休みになるのを楽しみにしていた。
ただ、特に閉鎖的な田舎というわけではなかったのだが、近所の子供達は都会から来た余所者には厳しくて遊びの仲間に入れて貰えなかったので、祖父母の家に滞在している間は大抵親戚のお姉さんなどの大人達に相手をして貰うか、一人で山や川に行って遊ぶことが多かった。

そんな夏のある日のこと。
一人で探検に訪れた山の中の神社で、彼と出逢った。

「君は苗字の家の子だね」

汚れひとつない清潔な身なりをしたその少年は、何処と無く他の子供達とは違う空気を纏っていた。

「ずっと君を見ていた。なまえ」

その子は熱っぽい声で言った。

「私は、傑。夏油傑だ」

「すぐるくん?」

「こう書くんだよ」

傑くんは地面に字を書いて教えてくれた。
綺麗な字だ、と私は感心した。

「私と友達になってくれないか」

「うん、喜んで」

こうして私に友達が出来た。それからは毎日のように神社に通い、日が暮れるまで川や山で傑くんと二人で遊んで過ごした。
そんなある日。私はずっと不思議に思っていたことを尋ねてみた。

「ねえ、傑くん」

「ん?」

「傑くんにはどうしてお耳と尻尾があるの?」

「……驚いたな。見えていたのかい?」

ぼふんという音とともに煙に包まれた傑くんの姿が大人の男性のものへと変わる。
ハーフアップにまとめられた長い黒髪に、切れ長の涼しげな目元。お坊さんのような格好をしたその頭には狐のそれのような尖った耳があり、後ろにはフサフサの尻尾が九本見えていた。

「これが私の本当の姿だよ」

「わぁ、凄い!傑くんはお狐さまだったんだね」

「そう、九尾の天狐と呼ばれている」

傑くんが静かに笑って言った。

「私が怖くないのかい?」

「どうして?傑くんは大事なお友達だから怖くなんてないよ」

「ありがとう、なまえ」

傑くんにぎゅっと抱き締められる。傑くんが嬉しそうだと私も嬉しい。
傑くんは一回り以上小さな私の身体を抱きすくめるようにして、私に頬擦りした。

「そんな君だから、私は……いや、今はまだやめておこう。その代わり──」

傑くんの唇が動いて、何事か言葉を紡ぐ。
しかし、その時突然蝉が一斉に鳴き始めたせいで傑くんがなんと言ったのか私には聞き取れなかった。

「傑くん、あの」

聞き返そうとした私の手を傑くんがぎゅっと握る。

「ダメかな?」

くぅんと今にも鳴きだしそうな子犬のような、縋るような顔で傑くんが小首を傾げたので、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。

「だ、だめじゃないよ!」

「本当に?約束してくれる?」

「うん。約束する」

「ありがとう、嬉しいよ」

またもや傑くんにぎゅうぎゅうと抱き締められる。
フサフサの尻尾がゆらゆらと揺れている。
大きな身体に抱き潰されそうなくらいきつく抱き締められて少し苦しかったけど、本当に嬉しそうな様子に私も嬉しくなった。

「約束を忘れないでくれ。その時を楽しみにしているよ、なまえ」

それが今からちょうど十年前のこと。

あの後、祖父母が相次いで亡くなった為、お葬式に出たのを最後に、夏休みにあの田舎の村に行くことはなくなってしまっていたのだった。
そして、十周忌の法要に出席した私は、十年ぶりにあの神社に訪れていた。

いまはまだ蝉時雨は聞こえない。夏ではなく春だからだ。あの夏、濃い緑の影を落としていた木々には散りかけた桜の花が咲いていた。桜の季節ももうすぐ終わり、また暑い夏がやってくる。

「おかえり、なまえ」

「傑くん」

傑くんは待っていてくれた。あの頃と変わらない姿のままで。

「おいで」

五条袈裟を身に付けた傑くんが両腕を広げたのを見て、その胸に飛び込む。揺らぎもせずに私を抱きとめてくれた傑くんの逞しさにきゅんとなった。身体を包み込む懐かしい匂い。ああ、好きだなあとしみじみ思う。

「大きくなったね。あの頃から可愛かったけど、とても綺麗になった」

傑くんの胸から顔を上げると、愛おしくて堪らないと言いたげな眼差しを注がれていて、急に照れくさくなった。ちょっと身体を離そうとするが、がっちりと抱き込まれていて身動きもままならない。

「私との約束をちゃんと覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」

「約束?」

「そう。大きくなったら、私のお嫁さんになってくれると約束しただろう」

片腕でしっかりと私を抱いたまま、傑くんが私の頬を優しく撫でる。縦長に変わった瞳孔が、彼が人ではないものであることを示していた。

「愛しているよ、私のなまえ。二度と離さない。これからはずっと一緒にいよう。永遠に、二人で」

何か言わなければ、と開いた口を覆い尽くすように傑くんに口付けられる。長い舌が口腔をねぶり、怯えて縮こまる私の舌を捕らえて絡みついてきた。
ちゅくちゅくと卑猥な音を立てて執拗に続けられる口付けに、思考が蕩けて何も考えられなくなる。

“あやかしと簡単に約束を交わしてはいけない。彼らの世界に攫われてしまうからね”

そうお婆ちゃんに言われたことを唐突に思い出したけど、もう遅かった。
私が何かを答える前に辺りに渦巻くような桜吹雪が巻き起こり、二人の姿をかき消してしまっていたからだ。

その光景を偶然目撃した村の子供は、家に逃げ帰って母親にこう話したという。
女の人が桜に攫われた、と。



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