仕事から帰ってくると、マンションのエントランスに濡れた足跡があった。
昨日も今日も雨は降っていない。台風一過の快晴だ。
乾いたエントランスのタイルの上にべったりと残された裸足の足跡を横目で見つつエレベーターに乗る。先ほどからどうにも寒気が止まらない。理由はわかっているが勘違いだと思いたかった。
エレベーターが止まり、ドアが開く。
真っ直ぐ奥へと続く通路の向こう、私の部屋のドアの前にびしょ濡れの赤い服を着た女が立っているのを見た瞬間、私は半泣きになりながらエレベーターの閉まるボタンを連打していた。

「それで僕に泣きついてきたってわけだ」

半べそをかきながら五条さんの背中に張り付いたまま震えている私に、五条さんが可笑しそうに笑う。

エレベーターでエントランスまで戻った私は迷わず五条さんに電話した。
丁度出張から帰って来たばかりだった五条さんに泣きつくと、五条さんはすぐに駆けつけてくれた。
四級にも満たない蠅頭を祓うくらいは出来るが、それ以上──ましてや二級相当の怨霊相手ともなるとそうもいかない。所詮は呪術師になるのを諦めて窓になった半端者なので、本格的な祓除となると本業の呪術師の人達には遠く及ばないのが現実だ。

「僕に連絡したのは正解だよ。こいつはちょっと執念深くて厄介そうだ」

びええ!となる私をよしよしと宥めた五条さんの声は笑っていた。どんなに執念深くて厄介な相手だとしても、彼にとっては赤子の手をひねるのに等しいに違いない。

「お前は本当に厄介なものにばかり好かれるね」

瞬く間に怨霊を祓い終えた五条さんにやんわりと抱き締められる。背中を優しくぽんぽんされると余計に泣けてきた。
怖がりのあまり呪術師になるのを断念した私とは違い、五条さんはいつも余裕綽々といった感じの態度を崩さない。人知を越えるほどの能力の持ち主であり、誰もが最強であると認めざるを得ないその実力に裏打ちされた余裕なのだろうと思う。

「今夜は僕の部屋に泊まりな。側で待っててあげるから三日分くらいの着替えとか必要なものを荷造りして」

「はい……ありがとうございます」

手早く荷物をまとめてキャリーバッグに詰め込むと、それを五条さんが車まで運んでくれた。ついでに私も小脇に抱えられて運ばれた。

「大変でしたね、なまえさん。ご無事で何よりです」

運転席にいた伊地知さんが労るように声をかけてくれる。

「ご心配をおかけしてすみませんでした」

「まったくだよ。僕をこんなに心配させたんだから」

私を後部座席に詰め込み、自分もその隣に乗り込んだ五条さんが言った。

「ごめんなさい」

「いいよ。許してあげる。言っておくけど僕がこんなに甘いのはお前にだけだからね」

わかってる?と言った五条さんが私の唇にがぶりと噛みつくようにキスをする。
私達がキスをしている間に、何も知らないふりをして伊地知さんは車を発進させてくれていた。

「先にシャワー浴びてきていいよ」

高専の五条さんの部屋に着くと、そう言われてタオルを渡された。とはいっても部屋の主より先に入るわけにはいかない。

「五条さんこそ出張から帰って来たばかりでお疲れでしょう。私は後でいいですからゆっくり入ってきて下さい」

「出てきたら襲うけどいいの?」

「すみません、お先に失礼します」

私は素直にタオルと着替えを持って浴室に駆け込んだ。
五条さんの部屋に備え付けられた浴室は広く、安心してシャワーを浴びることが出来た。
それはいい。でも、着替えを持って来たはずなのに、どうして五条さんのシャツを着ることになっているのでしょうか。

「それはほら、男のロマンってやつだよ」

はいこれ、と五条さんに渡されたお茶を手にソファに腰を降ろす。五条さんのシャツは私には大きすぎて、ちょっと丈が短めのワンピースみたいになってしまっている。
柔軟剤か五条さんの匂いが染み付いているのか、凄く良い匂いがした。

「じゃあ、僕もシャワー浴びてくるから待ってて」

浴室に向かった五条さんを見送って、ぼんやりしながらお茶を飲む。冷たいお茶が喉を滑り落ちていく感触が心地よかった。
張り詰めていた糸がほどけていくように安堵の波が全身に広がっていく。五条さんがいるここは世界のどこよりも安全な場所だとわかっているから。
繁忙期で忙しいはずなのに助けに来てくれた五条さんには感謝の念しかない。いつも五条さんには助けられてばかりだ。

「五条さん、大好き」

「僕も好きだよ」

びっくりして顔を上げると、上半身は裸のままでズボンだけ履いた五条さんが立っていた。

「ご、五条さ、」

「自分でもどうしようもないくらい愛してる」

躊躇うように目を泳がせてから、小さく私もと呟く。

「悟さん、愛しています」

「お前、その格好でそれは反則」

五条さんが私の顎を捉えて顔を上を向かせた。国宝級と言えるほど整った顔立ちに真っ直ぐ見つめられて胸をどきどきと高鳴らせているうちに、五条さんの顔がゆっくりと近づいてくる。目をつむると、柔らかな唇が重なり合った。
五条さんはためらいなく口腔へと舌を滑り込ませてくる。ぬるりとしたくすぐったさに一瞬身を固くした私だが、丁寧に歯列をなぞられてゆっくりと力を抜いていった。

「ん、っ……ちゅ、ぁむ、ん……」

舌を絡め取られ、ゆったりと粘膜をこすり合わせられる。じんわりしたキスの快楽に意識に霞がかかり始め、あそこにとろりと蜜が滲むのがわかった。

「キス好き?可愛いね、なまえは」

キスだけで蕩けきった私の顔を眺めながら五条さんが微笑んで私を抱き上げる。

「怖いことなんか僕が全部忘れさせてあげる。僕だけを見て、僕だけを感じていればいい」

ベッドに運ばれてゆっくりと仰向けに降ろされ、五条さんの大きな身体が覆い被さってくる。
私も無意識に五条さんの背中に腕を回して熱い吐息を吐き出した。


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