夏の終わりの夕暮れどき。
残り僅かな命を燃やし尽くすように蝉が鳴いている。
この時期になると蝉の死骸を踏まないように歩かなければならない。蟻が死んだ蝉を巣に運んでいるのを見て、生命の連鎖という言葉が頭に浮かんだ。
命は循環している。だからだろうか、急ぎ足で歩くサラリーマンが無造作に蝉の死骸を踏み潰していくことが冒涜的な行為に思えてしまうのは。

そんなある日の帰り道、ふとお囃子の音が聞こえた気がして足を止めた。
耳をすましてみれば、確かに遠くから祭り囃子が聞こえてくる。
夏の終わりにやるお祭りなんて珍しい。いや、そうでもないか。
興味がわいた私はそれが聞こえる方向へ向かって歩きはじめた。
お囃子の音が近付くにつれて自然と気分も高揚してくる。
りんご飴にチョコバナナ、お好み焼きに焼きそば、わたあめも欠かせない。金魚すくいに射的にヨーヨー釣り。
もう少しだ。もう少しで──

はっと我に返ると、神社へと続く石段を上りかけているところだった。見たことのない場所だ。どうやってここまで来たのか思い出せない。辺りは既に暗く、完全に日が落ちている。
見れば石段の上は真っ暗で、石造りの鳥居の下で闇が大きな口を開けて待ち構えているようにも見えた。とてもお祭りをやっているようには見えない。
誰かが息を吹きかけたみたいに生ぬるい風が吹きつけてきて全身に鳥肌が立った。

──これは罠だ。早く逃げなければ。

本能が鳴らす警鐘に従って慌てて階段を降りようとした私の前に『それ』は現れた。
子供が描いた落書きのように頭でっかちで何本もの腕と足があべこべの位置から突き出している、異形の化け物。その胴体についた大きな口は何かをバリバリと噛み砕いていた。恐らくは、私のようにおびき寄せられた誰かを。

咄嗟に身を翻して石段を駆け降りる。震えそうな足を叱咤して必死に動かす。そうしなければ恐怖で身動きが取れなくなりそうだった。
ボイスチェンジャーを使ったような奇妙にくぐもった笑い声が不気味に響き渡る。
『それ』が思いもよらないほどの速さですぐ後ろまで迫ってきていることがわかった。
駄目だ。間に合わない。
どうせなら死ぬ間際まで抗ってやろうと化け物に向き直った瞬間、背後から誰かに抱き上げられた。

「ひゃっ!?」

化け物の口が先ほどまで私がいた空間に食らいつきガチンとむなしく歯が鳴るのが聞こえた。

「危なかったね。大丈夫かい?」

この場の状況にそぐわないほど穏やかな声とともに、私を抱き上げていた人物が石段の下の道路へと着地する。
それは黒い僧衣に五条袈裟を纏った長身の男性だった。
格好こそお坊さんのものだけど、とてもお坊さんには見えない。
ハーフアップにされた長い黒髪に、抱き上げられた時にわかったガタイの良さに、何より先ほどの身のこなし。絶対に普通のお坊さんじゃないと確信を持って言える。

「君はあれが見えるんだろう?」

そうだ、あの化け物は、と振り返れば、別の何かに襲われて身体が真っ二つになっているところだった。甲高い絶叫とともにその身体が黒いもやへと変わり、男性が軽く挙げた手の平の上でシュルシュルと収縮して黒い玉になった。

「だから助けてあげたんだよ。君は猿ではないからね」

男性が手にした黒い玉を懐にしまう。

「あ、ありがとうございました」

「どういたしまして。丁度良い呪霊が手に入ったから礼には及ばないよ」

「呪霊?あの化け物のことですか?」

「そう。呪いの霊と書いて呪霊。君も知っての通り、この世界にはああいったものが溢れるほどいる。私はそれを集めているんだ」

黒い玉はドラゴンボールだった?いやいや違う。そうじゃない。私は改めて自分が目にした光景を思い出してみた。

「集めて使役するんですね。さっきそれを真っ二つにしていた別の呪霊みたいに」

「状況判断の早い、賢い子だ。ますます気に入ったよ」

男性はにっこり微笑んだ。助けて貰っておいてなんだけど、何となく胡散臭い感じの笑い方をする人だ。

「自己紹介がまだだったね。私は夏油傑。君の名前は?」

「苗字なまえです。助けて下さって本当にありがとうございました」

「さっきも言ったけど礼には及ばない。君は命が救われたし、私は君のお陰で手持ちの呪霊が増えた。お互い様さ」

夏油さんが言った。どうやら本当にそう思っているらしかった。

「ちなみに、さっきの黒い玉はどうするんですか?」

「そうだね、君には教えてあげてもいいかな。取り込むんだよ。経口摂取で」

「えっ、それを?」

驚いて思わずそう口にしていた。

「めちゃくちゃ不味そうなのに。吐瀉物を処理した雑巾の味がしそう」

その時の夏油さんの表情をなんと表現したら良いだろう。驚き、それから泣きそうな、それでいてどこか嬉しそうでもある、悲哀と歓喜が入り混じった複雑な顔。
だけどそれはほんの一瞬のことで、すぐににこやかな──だが含みがあるせいで怪しく見える笑顔に戻ってしまっていたから私の見間違いだったのかもしれない。

「なまえ」

びっくりするほど甘く優しい声音で名を呼ばれる。

「やはり、君は礼など言うべきではなかった。これから君を攫おうとしている男には」

「えっ」

夏油さんが私の腰をぐいと抱き寄せる。
急に近くなった距離に慌てるが、どれだけ抵抗しても私を捕まえている夏油さんの身体はびくともしない。身じろぎすると夏油さんから白檀の上品な香りがしてくらりとした。
触れあった場所から伝わってくる体温を不快に感じるどころか心地よいとさえ思ってしまっている私は、とっくにこの人に捕まっていたのかもしれない。
片腕で腰を抱かれたまま、夏油さんの端正な顔立ちが近付いてくる。優しい手つきで頬を撫でられ、唇が甘い言葉を紡ぐのを、どこか非日常的な出来事の続きのように受け入れてしまっていた。
私はこの人のものになるのだ、と。


「人を攫うのは何も呪霊だけじゃない。特に君のような可愛い子はね」



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