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「君にしか頼めない任務だ。頼りにしているよ」

この喫茶店への潜入任務が決まった時に降谷さんから言われた言葉だ。
その言葉だけを支えに、今日まで頑張って来た。

喫茶店ホンキートンク。
様々な裏稼業の人間が出入りし、時には依頼人との話し合いの場にもなるというこの店に、ウェイトレスとして潜入して半年。
ある一人の男の存在のせいで、石の如く硬かった覚悟が揺るぎ始めていた。

「いらっしゃいませ」

カランカランと涼やかなベルの音色とともに開いたドアから入って来たのは、既に把握しているこの店の常連客の一人、運び屋の赤屍蔵人だ。
彼は私が最も苦手としている人物だった。
が、しかし、そんなことは顔には出さない。

「こんにちは、聖羅さん。今日も可愛らしいですね」

「ありがとうございます。ご注文は何になさいますか」

「では、貴女を。テイクアウトで」

「残念ながらお持ち帰りは出来ません」

「それは残念だ。では、紅茶をストレートでお願いします」

「かしこまりました」

赤屍さんの視線を感じつつ、紅茶を淹れる準備に取り掛かる。
こんなやり取りも、もう慣れたものだ。

「ようやく春らしい陽気になってきましたね」

「まだ時々思い出したように寒くなる日もありますけどね。もう春ですよね」

「春と言えば行楽シーズンでもあります。どうです、ご一緒にピクニックなどいかがでしょう」

「赤屍さんがピクニックって、何だか違和感がありますね」

「そうですか?ですが、らしくないことも、貴女とならば楽しめそうだ」

「またまたご冗談を」

「私はいつも本気ですよ。貴女に関しては特に……ね」

赤屍蔵人。
最強最悪との呼び名も高い、運び屋の男。
私の何がお気に召したのかはわからないが、初めて逢った時からずっとこんな調子で口説かれている。

はっきり言って怖い。

実は、私は彼の『お仕事現場』に遭遇したことがある。
一週間はお肉が食べられなかった。
公安の人間として、それなりの修羅場をくぐってきたというのに、である。
あんな凄惨な現場は初めてだった。
いまでもカラスを見るたびに思い出してしまう。
凶悪な殺人鬼といった印象の男だが、何でも最近は人殺しはやめたのだとか。
どういう心境の変化かは知らないが、失われるはずの命が救われたのは良いことだ。

「聖羅さん、私とデートして下さい」

「申し訳ありません。お客様とのプライベートなお付き合いは、ちょっと」

「そんなに、彼のほうが良いのですか」

「何のことでしょう?」

「降谷零くん、でしたか。貴女の上司の彼ですよ」

「何のことかわかりません」

「本当に?」

赤屍さんの手の平から、鋭く輝くメスが出たり入ったりするのを視界の端に捉えながら、背中を冷や汗が伝うのを感じていた。

バレている。

でも、どうして?いつから?

「難しく考える必要はありませんよ」

私が淹れた紅茶を優雅な動作で飲み、カップをソーサーに戻してから赤屍さんが言った。

「私は貴女が欲しい。そのためならどのような手段を使っても構わないほどに」

「……どうして?」

「もちろん、貴女を愛しているからですよ」

昏い色をした双眸が私をじっと見据えている。
底の知れないその闇に飲み込まれそうになり、必死に縋りつくように思い浮かべたのは降谷さんの姿だった。
明るいミルクティー色の髪、健康的な褐色の肌。
目の前の男とは何もかもが対照的だ。
黒髪に、闇夜でも白く浮かび上がりそうな白い肌。

「冗談はやめて下さい」

「本気だと言ったはずです」

私は完全に怖じ気づいていた。
赤屍蔵人が放つ気に飲み込まれかけていた。
それでも踏みとどまっていられたのは、胸の内に住む降谷さんの面影のお陰だ。


降谷さん

降谷さん

どうか私を守って下さい


そんな私を嘲笑うように、目の前の黒衣の死神はゾッとするような微笑を浮かべてみせた。

「それでこそ、堕とし甲斐がある。やはり貴女は興味深い。何としてでも手に入れてみせますよ。必ず……ね」


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