蝉の断末魔が聞こえる。 お盆休みも終わり、平成最後の夏もあと少しとなった。 そういえば、今年は夏バテしなかったな。 そう考えて、チラリと頭をよぎったのは黒衣の外科医の存在だ。 聖羅の主治医を自称する彼は、外科のみでなく内科の診療も出来るようで、診察と称して何くれとなく世話を焼いてくれた。 お陰で今年の夏も何とか乗りきれそうだ。 何かお礼をしなければ、と残暑お見舞にちょっと奮発してスイカを持って行くことにした。 赤屍のマンションには何度か足を運んだことがあるが、いつ見ても立派な建物だ。 二重ロックの前で部屋番号を打ち込み、インターホンを鳴らす。 『はい』 「あ、あの」 『どうぞ上がって来て下さい』 名乗る間もなくドアロックが解除されたため、そのまま奥に進みエレベーターで最上階まで上がる。 玄関前まで来ると、待っていたようにドアが開かれた。 「いらっしゃい、聖羅さん。良く来てくれましたね」 「こんにちは」 「さあ、どうぞ中へ」 「いえ、今日は残暑お見舞にこれをお持ちしただけなので」 「それはそれは。重かったでしょう。切り分けますので是非召し上がっていって下さい」 スイカを見せると、赤屍は半身をドアから出して聖羅を中へと招き入れた。 渡して帰るだけのつもりだったのに、と戸惑いながらも仕方がないので上がらせてもらうことにする。 「じゃあ、お邪魔します」 「ええ、どうぞ」 室内は快適な気温で、外から来た聖羅にはまるで別世界のように感じられた。 それは、この赤屍蔵人という男の存在も関係しているかもしれない。 どこか浮世離れした雰囲気の持ち主である彼の自宅は、まるで生活感が感じられなかった。 どの家にもある生活臭すらない。 まるで病院の無菌室を思わせる清潔な部屋に通されて、ソファに座って待つこと数分。 赤屍はご丁寧に種を除いて一口大にカットしたスイカをガラスの器に盛り付けて運んで来てくれた。 「美味しそうなスイカですね。ありがとうございます」 「あ、いえ、これはいつもお世話になっているお礼で」 「お気になさらず。私が好きでやっていることですから」 さあ、どうぞ召し上がれと勧められて、フォークを手にする。 カットされたスイカを刺して口に運ぶと、爽やかな甘さが口の中に広がった。 赤屍はそんな聖羅を微笑んで見つめている。 何だか身体がむず痒くなるような視線だ。 まるで肉食獣が獲物をじっくり見定めているような、ねっとりと絡みついてくる視線に背筋が寒くなるのを感じた。 「今日は顔色が良さそうで安心しました」 「えっ」 「ここしばらく忙しかったようで心配していたのですよ」 「すみません」 「体調を崩されなかったようで何よりです。お仕事が大変なのはわかりますが、くれぐれも無理はなさらないで下さいね」 「はい、ありがとうございます」 さっき居心地悪く感じたのは、聖羅の様子を観察していたからだったようだ。 医者が患者にするように、聖羅の体調を検分していたのだろう。 怖がってしまって申し訳ないことをした。 こんなに親切にしてもらっているのに、何故自分はこの人のことを怖いなんて思ったのだろう。 「赤屍さんも後でスイカ召し上がって下さいね」 「ええ。せっかく貴女から頂いたものですので、じっくり味わって頂こうと思っています」 「じゃあ、私はそろそろ…」 「もう帰ってしまわれるのですか?」 「明日も仕事ですから」 「残念ですが、仕方ありませんね」 案外あっさり引き下がってくれたことに内心安堵しつつ、ソファから立ち上がる。 赤屍は玄関まで見送りに来てくれた。 「お邪魔しました」 「またいつでもいらして下さいね」 あたたかい言葉とともに外に送り出される。 エレベーターに乗り、一階へと降りてマンションの外に出ると、一気に熱気が押し寄せてきてげんなりした。 この暑さの中を帰らなければならないと考えるだけで気が滅入りそうだ。 小さくなっていくその姿を、赤屍は窓越しに眺めていた。 今日こそはと思ったのだが、やはりまだもう少し熟すのを待とうと思い直したのだ。 使われなかった彼女専用の部屋は、まだしばらく住人不在のまま待つことになるだろう。 「もう少しだけ、見逃して差し上げますよ」 獲物が常に美味しく最高の状態でいられるように献身的に尽くすのは、実に愉しい遊びだった。 密かに爪を研ぐように、彼は獲物が罠にかかるのをじっと待っている。 いつの日か、その白い首筋に食らいつく瞬間を楽しみにしながら。 |