「なまえ、英語の辞書貸して」

教室のドアを開けて現れた佐野くんを見た途端、みんなギョッとした顔をしてそれから慌てて目を逸らした。
ドア付近にいた男子達が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
そんな周囲の反応を全く気にしていない様子で佐野くんが「早くー」と急かすので、私は仕方ないといった素振りで机の中から英語の辞書を取り出して彼のもとへ駆け寄った。

「珍しいね。授業出るの?」

「まあな。たぶん寝るけど」

「やっぱり寝るんだ。辞書いらなくない?」

「一応持ってねぇとうるせーんだよ」

私から辞書を受け取った佐野くんは、ふああと大きなあくびをして、「じゃ、借りてく」と教室を出て行った。
あの様子だと授業が始まる頃には机に突っ伏して寝ているなと可笑しく思いながら自分の席に戻ると、周りをわっと友達に囲まれた。

「いまの『無敵のマイキー』でしょ」

「知り合いなの?」

「ていうか、めっちゃ普通に話してた!」

佐野くんとは一年生の時、同じクラスで席が隣同士になったのがきっかけで話すようになった。
めちゃくちゃ運動神経が良くて、勉強にはまるで興味がなくて、でもバイクとお兄さんの話をする時は楽しそうにしていたのが印象的な、自由気ままな猫みたいな男の子だ。
いまは暴走族の総長をやっているらしいが、きっと仲間想いの頼れるリーダーなのだろう。
佐野くんは基本的に一度懐に入れた相手にはフレンドリーで頼りになるから。

といった感じのことを説明すると、みんな納得したようなしていないような微妙な顔でそれぞれの席に戻って行った。
まあ、そうなるよね。
たぶんみんなの頭の中には、他の中学の不良がうちに殴り込みに来た時に佐野くんの蹴り一撃で沈められた光景が焼き付いているに違いない。

でも、佐野くんは意味なく暴力をふるう人ではない。いつもそこには必ず理由がある。
理由があれば暴力をふるってもいいのかと言われると悩んでしまうけど。
とにかく、佐野くんを無闇に怖がる必要はないのだということをわかってもらいたかった。

でも、そうしているうちに先生が来て、結局有耶無耶のままホームルームが始まってしまった。
日直の号令に合わせて、起立、礼をする。

「早速で悪いが、お前ら、今日の放課後プール掃除な」

先生の言葉に、「えー」「やだー」という不満の声とブーイングが巻き起こった。
みんなプールで泳ぐのは好きだけど、掃除となると出来ればやりたくないものなのだ。

「しょうがないだろ、先生じゃんけん負けちゃったんだから」

「なにやってんだよ、阿部ちゃん!」

「まあまあ、怒るなって。隣のクラスと合同だからサボらずにちゃんとやれよ」

隣のクラスと聞いて、一瞬ドキリとした。
ああ、でも、佐野くんは掃除なんてやらずに帰っちゃうかな。

「プール掃除?やるけど」

と思っていたら、お昼休みに英語の辞書を返しに来てくれた佐野くんから意外な返答があった。

「絶対サボるなって担任に釘刺された」

「あー、なるほど」

その割りには嫌そうに見えないのは何故だろう。不良の人って学校行事とかは好きみたいだから、プール掃除も行事として捉えてるのかな。

「嫌じゃない?」

「別に。なまえも一緒だし、まあいいかなって」

ざわっ。
取り方によってはそういう意味にも聞こえる佐野くんの言葉に、教室にいたクラスメイト達がざわめいた。
周りからの視線が痛い。

「じゃあな」と片手を挙げて佐野くんが自分のクラスに帰っていった後、一人針のむしろ状態の中残された私は机に突っ伏してしまった。次の授業が始まるまで顔の熱は引いてくれなかった。


そして放課後。

私達のクラスはジャージのズボンとTシャツという格好でプール掃除に励んでいた。
一年分の汚れはなかなかのもので、ホースで水を流しながらデッキブラシでゴシゴシ擦るのだが、これが結構きつい。
何しろ炎天下での作業なので、早々に音を上げてプールサイドで休憩していたり、ホースの水をかけあって遊び出すものがいたりと、カオスな状態になりつつある。

「あっ」

後ろで男子の声が聞こえたと思ったら、次の瞬間には頭からずぶ濡れになっていた。

「悪ぃ、苗字!」

どうやらホースで遊んでいた男子に間違って水をかけられてしまったらしい。

「いいよ、すぐ乾くから」

「なまえ、これ使って」

友達がタオルを貸してくれたので、それで頭を拭いていると、佐野くんがぺたぺたと歩いてきていきなり目の前でTシャツを脱ぎ出した。
細いけどしっかり筋肉がついた上半身があらわになる。

「それ脱いでこれ着てろよ」

「え、でも」

「いいから、早くしろ」

私が濡れたTシャツに手をかけると、佐野くんがドスのきいた声で周りの男子達に向かって言った。

「見たら殺す」

震え上がって背を向ける男子達。
その間に私は素早く濡れたTシャツを脱いで佐野くんが貸してくれたTシャツを頭から被った。
男の子のだからやっぱり少し大きいそれは、当たり前だけど佐野くんの匂いがした。

「さっさと終わらせるぞ」

佐野くんの号令でみんな急いで掃除を再開し、予想していたよりも早く終わることが出来た。

制服に着替えて教室を出たら佐野くんが待っていて、何故か家まで送ってもらうことになった。
何だか急展開すぎて脳が追いつかない。

「Tシャツありがとう。洗って返すね」

「ん」

さりげなく歩調を合わせてくれるあたりに佐野くんの優しさが垣間見える。

「お礼とかは別にいいけど」

と言った佐野くんから衝撃の告白が。

「オレ、来月誕生日なんだよね」

「えっ、何日?」

「二十日」

大変だ。帰ったらすぐカレンダーにメモしておかないと。

「じゃあお祝いしないとね。プレゼント何がいい?」

佐野くんが立ち止まったので私も足を止める。
すると、片手を後頭部に当てて引き寄せられ、佐野くんの顔が一瞬の内に近付いたかと思うと、次の瞬間にはもう佐野くんの唇と私の唇がくっついていた。
真っ黒な目が至近距離から私を見つめている。
固まったままの私に、唇を離した佐野くんが言った。

「お前」


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