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午前中から降ったり止んだりしていた雨は、打ち込み稽古が始まったあたりから本格的なものへと変わっていた。

稽古に熱が入る一方で、ますます激しくなっていく雨。

幸いにも、うちの門下生の人達は皆しっかり傘を持って来ていたので、稽古が終わって掃除を終えた後も安心して彼らを送り出すことが出来た。

「無一郎くん、お疲れさま。先にお風呂入っちゃって」

「うん、ありがとう」

勝手知ったるなんとやらで、タオルを受け取った無一郎くんは迷う素振りも見せずに母屋に入って行った。
通い慣れたこの道場と同じく、彼にとってうちは第二の我が家のようなものなのだ。

私も母屋に入り、無一郎くんのための着替えを脱衣所に置くと、食事の支度をしに台所に向かった。

彼がうちの道場に通い始めてもう十年になる。

最初に会った時は私より小さくて女の子のように可愛らしかった無一郎くんだが、いまでは身長も伸びて、凛々しさも兼ね備えるようになっていた。
師範である祖父に言わせれば、「男の顔になった」らしい。

私から見ると、まだまだ可愛い弟のような存在なのだけれど。

「なまえ、今日のご飯なに?」

「ふろふき大根だよ」

「やっぱり。いい匂いがすると思った」

「ほら、ちゃんとドライヤーで髪乾かしてきて」

肩越しに鍋の中身を覗き込んでくる無一郎くんを回れ右させて洗面所へと送り返す。
変なところで男らしいというか、豪快な部分がある彼は、髪に関しては無頓着だ。
放っておくと自然乾燥にしてしまうため、うちでお風呂を使った時は必ずドライヤーで乾かすようにさせている。
せっかく綺麗な髪なんだから、傷めてしまったらもったいない。


「ねえ、いまの会話、夫婦みたいじゃない?」

「はいはい、そうですね」

味噌汁を味見する。
うん、ばっちり。

適当に流したせいで無一郎くんはムッとした顔になったが、すぐに気を取り直して私のお腹に腕を回して抱きついてきた。
さらりと流れた髪からシャンプーの甘い匂いが香る。

「ほら、こうすると新婚夫婦みたいだ」

そうかなあ。仲の良い姉弟にしか見えないと思うんだけど。

「無一郎くん、動き難いよ」

「んー」

どうやら退く気はないらしい無一郎くんを背中にくっつけたまま、食事の支度を続ける。

「出来たよ。座って」

「手伝うよ。お皿はこれでいい?」

「ありがとう」

無一郎くんが棚から出してくれた食器に料理を盛り付け、ダイニングテーブルの上に並べていく。

お母さんは入院中のお祖父ちゃんのお見舞いに行っているので、面会時間ギリギリまで帰って来ないだろう。

今日も無一郎くんと二人きりの食卓だ。

「いただきます」

「いただきます」

二人して手を合わせてから食べ始める。

「なまえのふろふき大根、相変わらず美味しいね」

「そんなに?」

「うん、最高。毎日でも食べたいくらいに」

「あはは、ありがとう」

「ねえ、僕プロポーズしてるんだけど」

「さすがに早すぎでしょ。その歳で将来を決めちゃうのは」

「そんなことないよ。初めてなまえに会った時からずっとこれは決定事項だから」

「えっ」

「僕は双子だし次男だから、なまえの家に婿入りして道場を継ぐよ」

「私、無一郎くんより四つも年上なのに」

「年上の女房は金のわらじを履いてでも探せって言うでしょ。問題ないよ」

「うーん……」

「言っておくけど、なまえ以外は全員了承済みだからね。なまえのご両親も師範も、僕の家族も皆そのつもりでいるから」

無一郎くんがにっこり微笑む。

なんてことだ。
知らない間に完全に外堀を埋められていたなんて。

「なまえは僕が必ず幸せにする。だから、僕のものになってよ」

「そ、そんなこと言われても」

「僕のこと嫌い?」

「好きだよ。でも、それは、弟みたいな存在っていうか……」

「…ふーん、そう」

おもむろに立ち上がった無一郎くんがテーブルを回り込んで来るのを見て、私も慌てて立ち上がった。
無表情が怖いよ無一郎くん!

「む、無一郎くん?」

逃げようとした瞬間、無一郎くんに腕を捕まれ、引き寄せられる。
そのまま彼の身体にぶつかり、抱きしめられてしまう。
力強い腕に驚いた。びくともしない。

「逃げないで」

その声があまりにも悲しそうだったので、思わず顔を上げて見上げると、彼の整った顔が近づいてきた。
あっと思った時にはもう遅く、柔らかい唇が重ねられていた。

「ごちそうさま」

無一郎くんが妙に色っぽい仕草で自分の唇を舐める。
思わずドキッとしてしまった。

「なまえは弟とキスするの?しないよね。だから、ちゃんと僕のこと男として見てよ」

懇願する口調なのに、私を見据える瞳は強固な意思を感じさせるもので。

将来、涼しげな美貌の青年になるであろう少年を前に、私は完全に競り負けていた。

私のほうが先に剣道を習い始めていたにも関わらず、いまでは全く敵わないように。

始めから私の敗北は決定済みだったのかもしれない。

「好きだよ。なまえ」

再び顔を寄せてくる無一郎くんに、私はもう抵抗出来なかった。


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