※トリップ ご飯が炊けてきた匂いがする。 鴉で連絡をもらってから用意し始めたので、ちょうど良いタイミングで炊き上がりそうだ。 三つの釜で炊いているさつまいもの炊き込みご飯を横目に、牛肉と玉葱のすき焼き風炒めを菜箸でかき混ぜる。 それからこれまたさつまいもの入った味噌汁を味見した。 うん、美味しい。 なまえの恩人であるあの人はそれはもうびっくりするほど食欲旺盛なので、一時間前から食事の支度だけでてんてこ舞いだ。 「良い匂いだな!これは、さつまいもか?」 「わっ、杏寿郎さん!いつの間に?」 「驚かせてすまない。いま帰ったところだ!」 「お帰りなさい。お怪我はありませんか」 「ああ、ただいま。この通り怪我はない!」 良かった、と胸を撫で下ろしていると、ごく自然な動作で手を取られた。 「俺のことよりも自分の心配をしなさい」 優しい声で叱られる。 杏寿郎が心配そうに見下ろすなまえの手は、あかぎれにこそなっていなかったものの、水仕事で冷たい水にさらされ続けたせいでカサついて荒れかけていた。 「胡蝶に塗り薬を貰って来た」 杏寿郎が小さな丸い入れ物を取り出す。 「こうして手の平で温めてから塗り込むといいらしい」 そう言うと、彼は両手でなまえの手を包み込むようにして、びっくりするほど優しく丁寧に薬を塗り込んでくれた。 「あ、ありがとうございます」 「うむ!困ったことがあれば何でも言うといい。力になろう!」 本当に面倒見の良い人だなとつくづく思う。 そうでなければ、いくら行き掛かり上とは言え、なまえを自分の屋敷に住まわせたりはしないだろう。 出逢いは突然だった。 ある日、買い物帰りに何の前触れもなくこの大正の世界に飛ばされ、鬼に襲われかけたところを、この煉獄杏寿郎に救われたのだ。 杏寿郎は鬼を倒すための組織、鬼殺隊の炎柱で、なまえは偶然にも彼の見回り中に管轄内の地域に現れたため助かったのだった。 もしも、彼が違う場所を見回っていたら、なまえは何もわからないまま殺されていただろう。 杏寿郎は命の恩人だ。 そればかりか、彼はなまえの話を信じてくれた上に自分の屋敷に連れ帰って住まわせてくれたのである。 男の自分ではわからないこともあるからと、以前継子だったという甘露寺や胡蝶に身の回りのものを揃えるための買い物の同伴を頼んでくれたりもした。 「うまい!うまい!」 あれだけ大量に作った料理が瞬く間にたいらげられていくのを清々しい気持ちで見守りながら、なまえはせっせと給仕を務めていた。 さつまいもご飯のおかわりを注ぎ、湯飲みに茶を注ぐ。 「君はもう食べないのか?」 「はい、もうお腹いっぱいです」 「そうか!それにしても、君の作った料理はいつもうまいな!」 「ありがとうございます」 「わっしょい!わっしょい!」 食事の時間は楽しく進んだ。 炎柱である杏寿郎は多忙な人だ。 なまえを保護してしばらくの間は任務を減らして貰っていたらしいが、なまえがここでの生活に慣れてきたのを見計らって、元のペースに戻したのだと聞いた。 それでも、どれほど忙しくとも、三日に一度は様子を見に戻ってきてくれる。 今回は明日の午後に出立するとのことで、久しぶりにゆっくりと過ごせるようだ。 その杏寿郎は、食事を終えて入浴中だった。 「杏寿郎さん、お湯加減いかがですか?」 「ありがとう!ちょうど良い加減だ!」 「着替え、ここに置いておきますね」 「ああ、助かる!」 屋敷にいる間は出来るだけ寛いで欲しい。 命がけの仕事をしている杏寿郎になまえが出来ることと言えばそれくらいしかなかった。 むしろ逆に気を遣われる始末だ。 なまえは塗り薬を塗り込まれた手を見下ろして溜め息をついた。 「なまえ」 「はい、杏寿郎さん」 「一緒に入らないか?」 「駄目です」 「駄目か」 もちろん、なまえは杏寿郎があがってから風呂に入った。 その夜のことだ。 何となく寝付けなくて、天井を見つめていたなまえだったが、掛け布団を引き上げた時にふわりと香った品の良い梔子の花の香りを嗅いだ途端、急に涙が出てきた。 そういえば、元いた世界ではこの時期になるとこぞって各社がハンドクリームやボディクリームのCMを流していたなと思い出したせいだった。 ──帰りたい いつになったら帰れるのだろう? もしかしたら、もう二度と帰れないのではないだろうか。 そんな風に考えてしまうともう駄目だった。 次から次へと涙が溢れ出てきてしまう。 「なまえ」 布団の中で声を殺して泣いていると、不意に障子の向こうから声をかけられた。 「入るぞ」 「えっ、えっ、あの」 さらりと障子が開かれ、寝間着代わりの浴衣を着た杏寿郎が室内に入って来る。 「やはり、な」 杏寿郎の凛々しい眉が困ったように下がるのを見て慌てて涙を拭うが、その腕を取られて引き寄せられた。 あたたかい胸にしっかりと抱きしめられる。 「一人で泣かないでくれ。泣きたいのなら、俺の胸を貸そう」 「杏寿郎さん……」 ふえぇんと泣き出したなまえの背を杏寿郎は優しく撫でてくれた。 「大丈夫だ。俺が君の傍にいる」 「うう……ふぇ……」 「俺の全てでもって、君を護ろう」 どれくらいそうしていただろう。 ようやく泣きやんだなまえは、恥ずかしく思いながらそっと杏寿郎の胸板を押して離れようとした。 が、しかし、なまえを抱きしめる腕はびくともしない。 「それで」 いつもはどこを見ているかわからない杏寿郎の目が、真っ直ぐなまえの目を見据えている。 なまえは何故か、自分がとんでもなく獰猛な肉食獣に捕まってしまった錯覚をおぼえてぶるりと身を震わせた。 「祝言はいつにする?」 |