化粧室から戻ると、世界は一変していた。

最初に気付いた異変は、音だ。
あれだけ賑やかだったのが嘘のように、いまは怖いくらいに静まりかえっている。

次に目に入ったのは、ベージュ色の壁にべったりと張り付いていた赤黒い手形。
それは線を描くように床まで続いていて、そこに倒れている男性客の周りに広がる血溜まりの中に混ざって消えていた。

よく見れば、そこにも、あそこにも、血塗れで倒れている人達がいる。
誰もが皆、頭が内側から破裂したように血と『中身』が弾け飛んでいた。

「ひどい……どうしてこんな……」

思わず手で口元を覆ってよろめく。

その身体を背後にいた誰かに支えられてぎょっとした。

「驚かせてすみません。大丈夫ですか?」

それは白いロシア帽を被った長身痩躯の男性だった。
帽子と同じ白い上下に、ファーの付いたコートを着ている。
沙がかかったような葡萄色の双眸に怯えきったなまえの顔が映っていた。

「ここは危険です。ぼくと一緒に来て下さい」

「な、何があったんですか?」

「テロですよ。この船にはテロリストが紛れ込んでいたんです」

彼はなまえの手を引いて歩き出した。

「幸い、ぼくの部下がヘリで迎えに来てくれています。それで脱出しましょう」

──ぼくの部下?
──ヘリで迎えに?

何か引っかかったが、いまはとてもじゃないがまともに頭が働かなかった。
他に脱出方法があるかもわからないし、彼に着いていくしかない。

しかし、船内はあまりにも酷い有り様だった。
そこらじゅう死体だらけで、まるで血の海だ。

「ひっ…!」

「大丈夫、ぼくだけを見ていて下さい。他のものは視界に入れてはいけません」

「は、はい」

なまえは繋がれた手だけを頼りにその中を突っ切って行った。



そうして、ようやくデッキに辿り着くと、そこには彼の言葉通り、ヘリコプターが待機していた。

「お待ちしておりました」

彼の部下とおぼしき人物がヘリのドアを開く。
彼に促されてヘリに乗り込む直前、なまえはふと後ろを振り返った。
動く者のいなくなった、死体だらけの船を。

──何かがおかしい。
でも、その『何か』がわからない。

もどかしく思っていると、体温の低い彼の手が頬に触れて、そっと前を向かされた。

「さあ、早く」

頷いて彼とともにヘリに乗り込む。
すぐにドアが閉められ、程なくしてヘリはデッキから飛び立った。

「もう大丈夫ですよ、なまえさん」

「どうして私の名前……」

彼はその問いには答えずに、ただ謎めいた美しい微笑を浮かべてみせた。

「自己紹介がまだでしたね。ぼくはフョードル・ドストエフスキー。どうか、フェージャと呼んで下さい、なまえさん」



ドスくんエンド


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