蝶屋敷で働き始めてもうすぐ半年。 ここでの生活にも随分慣れてきた。 鬼に身内を殺され天涯孤独の身となった私に居場所と仕事を与えて下さったしのぶ様には、感謝してもしきれない。 ただ、困ったことがひとつ。 「おはよう!今日も可愛いな、君は!」 「え、炎柱様……」 「杏寿郎と呼んでくれ!俺も君を名前で呼んでいる。おあいこだ!」 「そんなわけには参りません。柱の方をお名前でなど恐れ多いですし、何より男の人をそんな風にお呼びするなんて……」 「愛い!愛いなあ!そんなところも堪らなく可愛らしい!」 私の手をご自身の手で包み込むようにして、今日も今日とてこちらが恥ずかしくて身の置き所が無くなるようなことばかり仰る、炎柱様。 初めてお会いした日からずっとこの調子なので、とても困っている。 「祝言はいつ頃がいいだろうか!君の都合に合わせよう!」 「怪我人もいるのですから、お静かに願います、煉獄さん」 「すまない、胡蝶!」 しのぶ様のお陰で声量はいくらか抑えられたが、手はまだしっかりと握られたままだ。 あの特徴的な目が真正面から私をとらえて離さない。 「君が好きだ」 先ほどまでとはうって変わった真摯な表情。 静かで穏やかな声音で告げられて、私の顔は耳まで真っ赤に染まってしまった。 「俺と ドキドキと鼓動が高鳴る。 あまりにもうるさいくらいに鳴り響くので、目の前の炎柱様に聞こえてしまいやしないかと心配になるほどだった。 炎柱様の手は大きくてあたたかく、ごつごつしていて、自分とは違う男の人の手なのだと嫌でも意識してしまう。 「煉獄さん、そろそろお時間では?」 「むぅ、今日はこれまでか」 名残惜しそうに私の手を離した炎柱様は、飛んで来たご自分の鎹鴉を肩に乗せ、私ににっこりと笑いかけた。 「また来る。次に訪れた時には、今度こそ良い返事を聞かせてくれ」 「えっ、あの、そ、それは」 「最後に、その愛らしい声で名を呼んでくれないか」 「えっ」 「杏寿郎、だ。なまえ」 「きょ、杏寿郎様……どうか、ご武運を」 「ありがとう!行って来る!」 炎を模した羽織の裾を翻して踵を返したと思ったら、もう炎柱様のお姿は消えていた。 ドン!と後から響いた音から、炎の呼吸で移動されたのだとわかる。 呆然としていた私は、はっと我にかえった。 流されるままお名前を呼んでしまったことに気がついたのだ。 恥ずかしい。穴があったら入りたい。 「相変わらずですね、煉獄さんは」 「しのぶ様……」 「どうです?煉獄さんに嫁ぐ気になりましたか?」 「し、しのぶ様まで、そんなっ」 ふふふ、と上品に微笑まれたしのぶ様は、その名が示す通り、蝶のように美しく可憐だ。 しかし、その容姿からは想像もつかないほど苛烈な突きを得意とする優秀な剣士でいらっしゃるのだった。 「数ヶ月に渡ってあれだけ毎日のように口説かれていたら、嫌でもその気になるのではありませんか?」 「わ、私では炎柱様の奥方など務まりません」 「そうですか?お似合いだと思いますよ」 「そんなことは」 「あらあら、煉獄さんもお気の毒に。あんなに必死で口説いているのに、一向に靡いてくれないなんて」 「しのぶ様っ」 「うふふ……馬に蹴られてしまう前に、私もそろそろ仕事に戻りますね」 クスクス笑いながらしのぶ様は行ってしまわれた。 手を止めていた私も、自分の仕事に取りかかる。 「炎柱様は良い方ですよ」 ベッドに寝ている怪我人の隊士の方に優しく諭され、私は困ったように微笑み返すことしか出来なかった。 それは私もよく存じ上げている。 だからこそ、私などでは釣り合わないと思ってしまうのだ。 初めて炎柱様と出会ったのは三ヶ月前のこと。 お怪我をされた炎柱様を手当てしたのがきっかけだった。 私が手当てをしている間、炎柱様はあの猛禽類のような目でじっと私を見つめていらしたが、終わりましたと声をかけると、突然私の手をガシッと握り、 「今日初めて会ったばかりだが、俺は君が可愛くて仕方がない。一目見た時からもうどうしても話がしたいと思っていた」 と仰った。 「つまり一目惚れだな!」 口説かれているのだとわかった瞬間、顔から火が出るかと思った。 それから炎柱様は三日と開けずに蝶屋敷を訪れるようになった。 柱として広大な担当地域を持ち、一般の隊士達よりも鬼退治や見回りなどでお忙しいはずなのに、そんな素振りは少しも見せず、蝶屋敷で働く私のもとに手土産を持っておいでになっては、好きだ、可愛い、夫婦になろうと口説いてこられるのだった。 「なまえ、もうじき隠の人が医療品を運んで来てくれるのですが、私はもう出掛けなければならないので代わりに受け取ってくれますか」 「はい、お任せ下さい、しのぶ様」 「ありがとうございます。お願いしますね」 任務に向かわれたしのぶ様の代わりに、私は受領書を用意して隠の人を待った。 「すみません、お待たせ致しました。胡蝶様のご注文の品をお届けに参りました」 「ありがとうございます。わざわざ申し訳ありません」 「いえ、仕事ですから」 隠の人から荷物を受け取り、一旦棚の脇に置いてから、受領書に印を押して渡す。 その際に、顔を覆う布の隙間から汗をかいているのが見えたので、清潔な手拭いを差し出した。 「暑い中お疲れさまです。これでお顔を拭いて下さい」 「す、すみません」 「いま、冷たいお水をお持ちしますね」 「あっ、いえ、どうかお構い無く!それよりも、お話が!」 水を取りに行こうとした手首をぐいと掴まれて止められる。 その手にもう片方の手を重ねられ、びっくりしている私に、その隠の人は言った。 「あの……好きです!ずっと前から、可愛い方だなと思っていて、それで……その」 しどろもどろになりながら好意を告白されて、私が感じたのは困惑と、ほんの少しの恐怖だった。 炎柱様に手を握られても、好きだと言われても、怖いだなんて思わなかったのに。 そうして、私はようやく気がついた。 好きだと、可愛いと言われるのも、手を握られるのも、炎柱様だったから嫌ではなかったのだ。 「何をしている」 凛とした声とともに、握られた手に影が差す。 「女性を怖がらせるのは感心出来んな」 「炎柱様!」 隠の人が慌てて手を離したのを確認して、炎柱様が私を引き寄せる。 私は救われたような気持ちで炎柱様の逞しいお身体に身を寄せて、小さく安堵の息をついた。 「胡蝶が留守の間に何をするつもりだった?返答いかんによっては容赦しないが」 「も、申し訳ありません!」 隠の人はそう叫ぶと、あっという間に走り去ってしまった。 やはりやましい気持ちがあったのかと、少し呆れてしまう。 「まあ、俺も人のことを言えた義理ではないがな!」 朗らかに笑う炎柱様の腰にぎゅうと抱きつく。 すると、優しく背中を撫でられた。 「君が無事で良かった」 そうして、包み込むようにして抱き締められる。 ちょっとだけ恥ずかしく、けれども嬉しさのほうが大きかった。 「……好きです」 「うん?」 「私も、きょ、杏寿郎様のことをお慕いしています」 「本当か?」 「は、はい。きゃっ!?」 ふわっと身体が浮いたと思ったら、杏寿郎様に腰を掴まれて抱き上げられていた。 そのままくるくる回る。 「ありがとう!やっと君の気持ちが聞けたな!」 「きょ、杏寿郎様っ」 「ああ、すまない!」 やっと降ろされたが、再び苦しいくらいにきつく抱き締められてしまった。 「すぐに祝言を挙げよう。出来れば、明日にでも」 「はい……はい、私を杏寿郎様のものにして下さい」 「そんな可愛らしいことを言われては、もう一日も待てないな!すぐに胡蝶に文を送ろう!」 任務先で杏寿郎様からの手紙を受け取ったしのぶ様がどんなお顔をなさっていたか、「わかりましたから少し落ち着いて下さい、煉獄さん」というお返事から伺い知れたので、私は杏寿郎様と顔を見合わせて笑ってしまった。 祝言を挙げて身も心も杏寿郎様に捧げた、三日前の出来事である。 |