あれは忘れもしない初めて好きになった人との初デートの時のことだ。

何日も前からあれでもないこれでもないと散々時間をかけて思い悩んだ末に決めたコーディネートで出かけた私は、少しは褒めて貰えるだろうかと期待に胸を膨らませていた。
彼は私よりも年上だったので、少しでも彼につりあうようにと、私は精一杯背伸びをして大人の女性に相応しいメイクも研究していった。
そうして待ち合わせ場所に着いた私は笑顔で彼に声をかけようとしたのだが、彼は知らない女の子と楽しそうに話していた。私といる時よりも、ずっと楽しそうに。

その瞬間、はちきれんばかりに膨らんでいた幸せな気持ちが空気の抜けた風船のように急速にしぼんでいくのを感じた。
胸を満たしていたあたたかな想いがサーッと音を立てて冷えてゆく。
そうだよね。やっぱり明るくてコミュ力のある可愛い子のほうがいいよね。

「……帰ろう」

新しい彼女とお幸せに、とメールして携帯電話の電源を切る。
みっともなくわあわあ泣きながら逃げ帰った私だが、途中で慣れないピンヒールの踵は折れるし、周りの人からは奇異の目で見られるしで、惨めな気持ちでいっぱいだった。
携帯電話に登録されていた彼の連絡先を帰宅してすぐ削除したことは言うまでもない。

初恋の苦い想い出である。

それから何度か引っ越しをして完全に消息を断つことが出来たと思えた頃、私は新しい環境で新しく人間関係を築きつつあった。この人とならと思える人も出来た。
それなのに。

「やあ、おかえり。なまえちゃん」

砂色のロングコートに白いシャツとグレイのベスト。下は白いズボンに革靴。
胸元には青緑の石が付いたループタイ。
見慣れた服装はあの頃のまま。
相変わらずの蓬髪に、端正な顔立ちに甘い笑みを浮かべた太宰さんが私の部屋のベッドに腰掛けていた。

「どうして……」

「『どうして』?それは私の台詞だよ」

太宰さんが立ち上がる。それを見た私は反射的に後退った。

「ようやく好きな子とのデートに漕ぎ着けたのに理由もわからず別れを告げられて、家を訪ねて行っても既に引っ越した後だった私の気持ちがわかるかい?」

逃げようと身を翻した身体を後ろから抱き締められる。

「探したよ。やっと見つけたんだ。もう逃がさない」

「やめて……離して……!」

「酷いことを言わないでくれ給え。私達は恋人同士じゃないか」

「ちが、違います!だって、もう」

「新しい職場の彼のことなら心配はいらないよ。ちゃんと私から説明しておいたからね」

愕然とした。この人は、どうしてこうも先回りをして私を追い詰めるのだろう。

「不幸な行き違いで離ればなれになってしまったけれど、もう大丈夫だよ。こうして、いま君は私の腕の中にいるのだから」

耳元で囁かれる内容はとても甘くて優しげなものなのに、猫に捕まった鼠のような気持ちだった。

「しかし、君には少しお仕置きが必要だね」

太宰さんが私を抱き上げる。
ベッドの上に降ろされ、逃げる間もなく太宰さんが覆い被さってくる。

「どれほど私が君を愛しているか知らずに他の男にうつつを抜かした君には」

太宰さんは笑っていたけど、その目は少しも笑っていなかった。そのことが私の背筋を冷たくさせる。

「大丈夫。ちゃんと君にもわかるように言い聞かせてあげよう。多少手荒になるかもしれないけれど、覚悟してくれ給え」

「だ、太宰さ、」

「しー。静かに。まずはその唇を塞ごうか」

先ほどの考えは間違いではなかった。確かに私は鼠だったようだ。
これからいたぶられるのがわかっていて震えるしか出来ない鼠だ。


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