深い森に囲まれた湖の上を濃い霧が漂っている。 何かの鳥が一声鳴いて、水面から飛び立った。 「…本物なんだ…」 肺が凍りそうな冷たい空気を吸い込んで、ぽつりと呟く。 ここはホグワーツ。 英国──ホグワーツ特急でかなり北上したから、恐らくはスコットランドの何処かなのだろう──唯一の魔法魔術学校。 英国生まれの子供で、魔法力を発揮した者には例外なくこのホグワーツへの入学案内が届けられる事になる。 元いた世界で『物語』として知り得たホグワーツの知識を思い出しながら、なまえは静かな湖面を眺めていた。 「…本物なんだ」 なまえはもう一度呟いた。 そして、何か温かくて柔かいものが肩にかけられた感触に、驚いて後ろを振り返る。 「風邪をひいてしまうよ」 滑らかなプラチナブロンドを背で束ねた男が立っていた。 見上げなければならないほどの長身の、既に少年とは言えないくらい完成された体躯を持つ彼は、アブラクサス・マルフォイだ。 肩にかけてくれたのは、手触りの良いブランケット。 そのブランケットからはアブラクサスと同じ香りがして、なまえはまるで本人に肩を抱かれているかのような錯覚を覚えて頬を染めた。 「有難う」 「どういたしまして」 視線で促され、彼と並んで歩き出す。 二人の足元を白い霧が流れていった。 「明日にはこの辺りも雪ですっかり覆われてしまうだろうね」 「そうですね」 「随分冷え込んできたけれど、寒くはないかい?」 「だ、大丈夫です」 上手く会話が続けられないのは、決しておぼつかない英語力のせいだけではない。 緊張でカチコチになったなまえを見て、アブラクサスは小さく笑った。 「君は私と話す時にはいつもそんな風に緊張しているね」 「そっ…そんなこと……」 「もっと打ち解けて貰うには、どうすればいいかな?教えてくれないか」 アブラクサスが足を止めたので、なまえも立ち止まる。 すっかり困りきった顔で彼の整った顔を見上げる。 どこまで関わって良いかわからないのだと、そう素直に伝えるわけにもいかず、答えに詰まったなまえを、彼は微笑を浮かべたまま無言で見下ろしていた。 仕方なく口を開く。 「私……実は、あの、男の人とあまり話した事がなくて……」 苦しい言い訳だが全くの嘘というわけでもない。 今までの生活では、こんな美青年と親しく話す機会などなかったのだから。 「どうすればいいかわからなくて緊張してしまう?」 アブラクサスが優しく尋ねる。 なまえはこくんと頷いた。 「なるほど。そういう事ならば、慣れて貰うしかないな。私は君をとても気に入っているし、出来ればもっと親しく付き合いたいと思っている。だから、君が心を開いて自然に接してくれるようになるまで、なるべく私の傍らにいて貰いたい。…いいね?なまえ」 いいね、と言いながらも、その口調は質問ではなく確認だった。 優しげに見えたアブラクサスの美貌の裏に潜む本性が垣間見え、なまえは固まってしまった。 「あ……えっと…」 「嫌かい?」 大きな冷たい手の平に頬を撫でられる。 気のせいか、さっきよりアブラクサスの顔が近くにあった。 距離を詰めて長身を屈めているせいなのだが、まるでキスでもされそうな雰囲気に、ヘンな汗が背中を流れていく。 頬が燃えるように熱く、目眩もしていた。 もう限界だと思った途端、襟首を掴まれてグイッと後ろに引っ張られる。 「!?」 「気持ちはわかるが、あまり虐めてやるな、アブラクサス」 リドルだった。 首に巻いたマフラーの向こうからひとの悪い笑みを覗かせて、アブラクサスを見据えている。 「追い詰めて逃げられても困る。せめてクリスマスまでは自由にしておいてやれ」 「分かりました」 「逃げっ──困るって何!? クリスマスまではって何!?」 「気にするな。こっちの話だ」 なまえは何だか嫌な予感がして、二匹の悪魔のもとから走って逃げ出した。 クリスマスまで、あと1ヶ月。 無事で済む確率は限りなく低い。 |