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フョードルさんとまだ出会ったばかりの頃。

怪我をして上手く手が使えなかった彼の髪を洗ってあげていたことがある。

もちろん、腰にはタオルを巻いて貰って、私は服を着たままで。

実のところ、誰かの髪を洗ってあげるのは嫌いではない。
友達と旅行に行った時など、美容院ごっこと称して友達の髪を洗ってあげることがあった。
気持ちいい、上手だね、と言われるのが嬉しくて、多少調子に乗っていた感はある。

ただ、背後に立つだけでピリピリとした殺気だか何かを出されて、少しでもおかしな真似をしたら命はないぞというように長い黒髪の隙間からジッと見られながら髪を洗うのは、正直言って冷や汗ものの体験だった。

「だから謝っているでしょう」

そう言いながらもフョードルさんの声音からは一切申し訳なさというものが感じられない。

「あの頃はまだ貴女が信頼出来る人間かどうかわからなかったんです。今までそういう世界で生きてきたものですから、初めて会った貴女という存在を警戒していた」

強すぎない力加減で、地肌に指の腹を立ててシャカシャカと洗う。
フョードルさんの黒髪は白いモコモコした泡で埋め尽くされていた。

「まだ怒っているんですよね。ぼくは貴女に失礼なことをしてしまった。反省しています」

「はいはい」

「貴女を傷つけたことは謝ります。どうか許して下さい」

「目を閉じていないと泡が入りますよ」

シャワーヘッドを頭に近づけて泡を洗い流していく。

ざっと濡れた髪をかき上げると、フョードルさんはあの何を考えているのかわからない昏い紫の双眸を私に向けて言った。

「許してくれますか?」

「許してなかったら、こうして洗ってあげたりしてませんよ」

「では、許してくれるんですね?」

「次はコンディショナーつけますよ」

「なまえさん」

「許しますってば」

言いながらコンディショナーを彼の髪を撫で付ければ、叱られた子供のようだったフョードルさんの顔が、ほんの一瞬、輝いたように見えた。

「ありがとう。貴女は本当に優しい人ですね」

「フョードルさんの周りは信頼出来ない人ばかりだったんですね」

「ええ、誰も信頼出来なかった」

コンディショナーを洗い流して濡れた髪をタオルで拭いてあげていると、彼はゾッとするような笑みを覗かせた。

「こちらの世界は実に美しい。いえ、人間の本質はそう変わりませんが、何より異能が存在しないというのが素晴らしい」

「異能……向こうの世界の人が持っている超能力みたいなものですね」

「そうです。ぼくは異能の存在しない世界を作りたい。そのためならどんなことでもする覚悟でいます」

「そんな……」

「優しい貴女には到底想像しえない世界です。向こうのヨコハマにはポートマフィアなる犯罪組織が存在しているんですよ」

「えっ、マフィアがいるんですか?」

「そう、彼らもその内……なるべく早く始末してしまわなければいけませんね」

そう呟いた横顔があまりにも冷たいものだったので、私は慌ててシャワーのお湯をフョードルさんの身体にかけた。
少しの間に冷えてしまっていたのか、その背中は冷たい。

「よく温まってから出て来て下さいね」

「もう行ってしまうんですか」

そんなことを言われても困ります。

「貴女も一緒に入ればいい。ぼくが洗ってあげますよ」

「それ完全にアウトなのでダメです」

「やれやれ……強情な人ですね」

フョードルさんは苦笑しているけれど、さっき目が本気でしたよね!

最近、フョードルさんとの距離感がおかしくなっている気がしてならない。

私の頭がどうかしてしまったのだろうか。


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