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フョードルさんは物騒なことさえ口にしなければ、物腰柔らかな美青年で通ると思われる。
加えて、独特な雰囲気の持ち主なので一見すると目立ちそうなのだが、人混みに紛れるのが上手い。
しかも、興味を引かれたものがあれば、ふらりとそちらへ行ってしまう。

ともすれば見失いそうになるので、あまり一人であちこち行かないで下さいとお願いしたところ、「それならば手を繋いでいましょう」と言われて、最近は出掛ける時はいつも手を繋ぐようになってしまっていた。
どうしてこうなったと頭を抱えるも、フョードルさんは今日もご機嫌な様子で私と手を繋いで歩いている。

片手でショッピングカートを押して、もう片手にはしっかりと私の手を握り、フョードルさんは早速野菜売り場へと足を向けた。

「ニンジンと玉ねぎでしたね」

「そうです。さすがフョードルさん」

記憶力はいいんですよというだけあって、彼は私が一度口にしたことは何でも覚えているようだった。

「じゃがいもとキャベツも買いませんか?」

「いいですよ」

シチューの予定だったから、じゃがいもは余分にあっても構わない。
キャベツもサラダやスープに使うので買っておいてもいいだろう。

「それからビーツも」

「ボルシチが食べたいんですね」

「当たりです」

「じゃあ、牛肉とホールトマトの缶詰も買わないと」

「作ってくれるんですか?」

「だって、食べたいんでしょう?」

留学経験があるので、故郷の食べ物が食べたくなる気持ちはよくわかる。
それでなくても異世界に飛ばされて不安だろうし、懐かしい味を求めるのは当たり前だと思った。

「凄く食べたいです」

「じゃあ、今夜はボルシチにしましょう」

「ありがとうございます」

上半身を屈めたフョードルさんが……えっ。

「フョードルさん!」

「何か?」

何かじゃない!

「今、頬に……」

「ただの挨拶ですよ。お気になさらず」

なんだ、ただの挨拶か。
じゃなくて!

「ここは日本の町中なので…そういうのは困ります」

「人前でなければいいのですね」

何だか言質をとられた気がする。
フョードルさんは笑顔でビーツをカゴに入れた。
私も負けじとキャベツをカゴに入れる。

その後も必要な食材を次々とカゴに入れていき、レジへとやって来た。

現金がちょっと少なかったのでカードで支払う。

「ありがとうございました」

店員さんの明るい声に背中を押されて店の外に出ると、フョードルさんが不意に空を見上げて瞳を細めた。

「雨が降りそうです。急ぎましょう」

「えっ」

今日は確か降水確率は10%だったはず。
しかし、フョードルさんは私の手を取って急ぎ足で帰路についた。

「わ、本当に降ってきた!」

丁度自宅についたどんぴしゃのタイミングで降り始めた雨に驚く。

「ぼくの言ったことを疑っていたんですか?」

「い、いえ、そういうわけじゃ…」

「ダメです。貴女からキスしてくれないと許してあげません」

「ええ……」

仕方ないなあ。
でも、これはあくまでも挨拶だから、と割り切ってフョードルさんの白い頬にそっとキスをする。

「も、もういいですよね。手を洗ってきます」

クスクス笑うフョードルさんを置いて私は洗面所に駆け込んだ。

「どうして逃げるんですか」

「逃げてません!」

「ぼくからは逃げられませんよ」

背後から伸びてきた二本の腕に抱きすくめられる。

「ほら、捕まえた」

フョードルさんはそのまま手を洗い始めた。
彼の腕と身体に囲い込まれているため逃げられない。

鏡越しに目が合って、ゆっくりと唇の端を吊り上げて微笑むフョードルさんにゾッとした。

ちょ、ちょっと!
怖いんですけど!


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