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フョードルさんが帰って来たのは、そろそろ食事の支度に取りかからないといけないなと考えていた時だった。

「ただいま戻りました」

「お帰りなさい」

フョードルさんは、確か出かける前に、ポートマフィアと武装探偵社を争わせるための仕込みに行くのだと言っていた。
どんな物騒なことをしでかしてきたのかは知らないが、お仕事お疲れさまでしたというのも妙だし、言葉の選び方に困ってしまう。

と、私を抱擁しようとフョードルさんの腕が身体に回されそうになった時に、妙なニオイがすることに気がついた。
これは……ゴミのニオイ?

「フョードルさん、何をしてきたんですか?まさかゴミ箱に入ったりなんかしてませんよね」

「意外と鋭いですね。警察官に変装するために路地裏で着替えた時に、目立たないようゴミ箱に着ていた服を入れたんです」

「よしわかりました。洗濯しますから、ちゃっちゃと脱いじゃって下さい。そしてついでにシャワーを浴びて来て下さい」

フョードルさんの背中をグイグイ押して、脱衣所に向かう。
素直に服を脱ぎ始めたフョードルさんを置いて部屋に戻ろうとしたら、腕を掴まれて引き戻されてしまった。

「どうして行ってしまうんですか」

「えっ」

「一緒に入りましょう」

「いえ、私は食事の支度をしないと……」

「遅くなっても構いません。部下にやらせてもいいのですよ」

「話しながら脱がない!私の服を脱がせない!」

「貴女が脱げと言ったんでしょう」

「私が外に出てからにして下さい!」

「一緒に入ってくれないのですか?」

「入りません」

「なまえさん」

「そ、そんな目で見てもだめですからねっ」

……私はたぶん、この魔人に脳みそをいじられたに違いない。
でなければ、いまバスルームの中でフョードルさんの頭を洗ってあげているはずがないからだ。

結局、妥協案として髪を洗ってあげることになってしまった。
自分でもどうしてこんなことになっているのかよくわからない。

脱衣場では今まさに洗濯機が働いているところだろう。
入る前にあの高そうなコートだけクリーニング(彼の部下がやってくれるそうだ)に出して、他の洗濯物は全て洗濯機に入れてスイッチを押して置いたので。

「気持ちが良いです」

「そうですか」

フョードルさんはご機嫌だが、こちらはやれやれという気持ちである。

「なまえさんに初めて髪を洗って貰った時のことを思い出します」

「あの頃のフョードルさんは手負いの獣みたいでしたねえ」

「ええ、ぼくもあの頃はまさかここまで貴女に心を許してしまうことになるとは思ってもみませんでした」

「フョードルさんの優秀な頭脳でもわからないこともあるんですね」

「そうですね。でも、信頼がどうのは別にして、そもそもが一目惚れでしたから」

「またまた、フョードルさんてば」

白い泡をシャワーで洗い流せば、羨ましいくらい艶のある漆黒の髪がそこにあった。
フョードルさんが濡れた髪を掻き上げて、私を振り返る。
その凄絶な色っぽさに不覚にもドキッとしてしまった。

「嘘ではありません。本当ですよ」

「そ、そうですか。ほら、前向いて下さい。特別に背中も洗ってあげます」

「照れているのですか。可愛いですね」

「熱湯かけますよ」

「ははははは」

「笑わない!」

フョードルさんの背中を泡立てたスポンジでごしごしと擦る。
日にさらされていない肌は病的なまでに白く、美白に躍起になっている女性達が目の色を変えてスキンケアの方法を聞き出そうとするだろうなと思うほどだ。

虚弱体質だという自己申告通り、フョードルさんの身体は男性にしては細身なほうだった。
腕もこんなに細いのに、どこからあんな力が出るのかわからない。

「はい、綺麗になりましたよ。あとは自分で洗って下さいね」

「前は洗ってくれないんですか」

「そちらはセルフサービスになっております」

フョードルさんにスポンジを渡した時、ちょうど洗濯が終わったのを知らせる音が聞こえてきた。

「なまえさん」

「何ですか?って、ちょっ、抱きつかないで下さい!泡がつく!泡が!」

「嗚呼、こんなに濡れてしまいましたね。せっかくですから、貴女も脱いで下さい。ぼくが洗って差し上げます」

それが狙いか!

「怒らないで下さい。ただ、貴女と触れ合いたいだけなんです」

見事にずぶ濡れになった私に宥めるような優しいキスをして、フョードルさんは唇の端を吊り上げて綺麗に微笑んだ。

それはもう、堕天した悪魔がいればこんな風だろうと思うような、それはまさしく魔性の微笑みだった。


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