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……何か、おかしな夢を見ていた気がする。

しかし、目が覚めて最初に見えたのはよく知っている自分の部屋だった。
一目惚れして買ったチェストも、クローゼットも、見慣れたものばかりだ。
2DKのこの部屋におかしなものが存在しているとすれば、いま私を後ろから抱きしめて眠っているフョードル・ドストエフスキーという人物くらいのものである。
何しろ彼は異世界から来た人間なのだから。

けれども、それさえもが当たり前のように思えてくるのだから、随分飼い慣らされてしまったものだと思う。

何の変哲もない、いつも通りの朝の光景。

それでも何か釣り針のようなものが胸に引っかかっていて、どうしても違和感が拭えない。

「どうかしましたか?」

「ひっ」

後ろから聞こえた含み笑い。
思わずビクッと跳ねた身体を宥めるように抱きしめ直した腕の力強さと温もりにはまだ慣れなくて。

「おはようございます、なまえさん」

「お…おはようございます、フョードルさん」

起きていたなら起きていると言って下さい。
言外にそう非難をこめて振り返ると、愉しげな笑みが目に映った。

「可愛いですね、貴女は」

「からかわないで下さい」

「からかってなどいませんよ」

フョードルさんの体温の低い指先が、乱れた私の前髪を優しい手つきで梳いて整える。
紗がかかったような紫の瞳が柔らかく細められた。

「Ты прелестная.」

「えっ」

突然聞こえた耳慣れない言葉のせいで反応が遅れてしまった。
近づいてきた端正な顔立ちをそれと認識する前に、額にキスを落とされていた。

「朝の挨拶です」

なんてすました顔で言うものだから、文句の言葉は飲み込むしかない。

さっきのはたぶんロシア語だろう。
朝の挨拶ということは、おはようございます的なもの?

「えっ、ちょっと、なんで笑ってるんですか!」

「すみません。貴女があまりにも素直なので、つい…くく」

「もう…」

「笑ったらお腹がすきました」

「離してくれないとご飯は作れません」

「それは困りましたね」

「困ってないで早く離して下さい」

ふう…といかにも私が駄々をこねているかのように溜め息をついたフョードルさんが、やっと腕を緩めてくれたので、今の内にと素早く脱出する。

その後ろでフョードルさんがどんな顔をしていたか、当然私には見えなかった。


温めたフライパンにバターを落とし、溶き卵を入れてオムレツを作る。

お皿の上には洗ったばかりのレタスと、茹でたブロッコリー。
そこに出来上がったオムレツを乗せて、同じくフライパンで炒めたソーセージを二本追加した。

「もう食べられますよ」

身支度を済ませたフョードルさんが洗面所から戻ってきたのでそう声をかける。

「その格好で行くんですか?」

「ええ、今日は少し肌寒いので」

フョードルさんは、私が最初に彼に会った時の服装をしていた。
愛用の白い帽子はウシャンカというらしい。
触らせて貰ったが、モフモフだった。

「いただきます」

祈りの時のように手を組み合わせてフョードルさんが言った。

「いただきます」

私もテーブルについて早速フォークでオムレツを少し切り取って口に運んだ。
うん、美味しい。

ブロッコリーにはノンオイルの青じそドレッシングをかけて食べた。
マヨネーズよりヘルシーな気がするのと、朝はさっぱりしたものが食べたいからである。
その点は食の細いフョードルさんも同意見のようだった。

「今日はお花見だけですよね」

「あ、出来れば春物の服も買いに行きたいんですけど」

「ぼくなら大丈夫です。それは今度にしましょう」

「フョードルさんがそう言うなら」

あまり体力のない彼のことだから、長時間歩き回りたくはないのだろう。

そう思っていたのだ。
この時は。まだ。


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