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「なまえさん、電車が来ましたよ」

隣に立っている人を知っているはずなのに誰なのかわからなくて、そんな自分に困惑する。
私を優しく見下ろしている長身痩躯の男性。
繋がれた手の少し低い温度もよく知っているはずなのに、まるで初めて触れたような気さえする。
周りの景色も、いまの自分達の状況も、何もかもが曖昧だった。

手を引かれるままに電車に乗り込み、ガラガラの車内を見渡す。

「地方の沿線ですからね。しかもこんな時間ともなれば乗客は少ないでしょう」

まるで私の心を見透かしたように彼が言った。
他に誰も座っていない座席に並んで腰を下ろす。

「どこに行くんですか?」

「貴女とならば、どこまでも」

はぐらさかれたのかと思ったのだが、そうではないらしい。

「行くあてのない逃避行です。どこへでもお供しますよ」

逃避行──そうか、これは逃避行だったのか。
繋がれたままの手をきゅっと握れば、優しく指を絡められて恋人繋ぎになった。
ほのかな体温が恋しくて、寄り添う身体に身を擦り寄せる。
彼は少し笑ったようだった。

「このまま終着駅まで行きましょう」

私は頷いて、反対側の車窓へ目を向けた。
外は暗闇で、真っ暗な中に私と彼の姿が映っている。
そうしていると何だかほんの少しだけ怖くなった。
本当にこのまま進んで良いのだろうか。
今のうちに引き返すべきではないのか。
手遅れにならない内に。

──『手遅れにならない内に』?

「あの」

「着きましたよ」

彼は私の手を引いて立ち上がると、明るい電車の中から夜の暗闇へと連れ出した。

戻らなければいけない。
何故か咄嗟にそう思った。

「は、離して……!」

「ダメですよ。帰しません」

先ほどまで慕わしく感じられていた彼の手の冷たさが、いまはただ恐ろしい。

「貴女は夢の中でさえ、ぼくを拒絶するのですね」

途中までは上手く行っていたのに。

そう言って微笑む彼が怖くて、必死に抗う。

ようやく手を振りきって電車に飛び乗ると、まるでタイミングを見計らったかの如くドアが閉まった。
彼一人を、暗闇に残したまま。

後悔と切なさと安堵で心の中がぐちゃぐちゃになって上手く頭が回らない。
これで良かったのだという確信と、彼を一人にすべきではなかったという後悔する気持ちが同時に存在していた。

「次は現実でお逢いしましょう」

今度は逃がしませんよ、と笑う彼の姿が遠ざかっていく。

そこで、目が覚めた。

「……嘘でしょ……」

いまのが初夢なんて最悪だ。

「フョードルさん、怖すぎ」

夢の中でついに一度も呼ぶことのなかった彼の名前を呟いて額の汗を拭う。

コン、コン、コン、と軽やかなノックの音が耳に届いて、玄関のほうへ視線を向けた。

──まさか

ドキドキと心臓が不穏に脈打つ。

もう一度、ノックの音。

まるで、黙って居留守を決め込もうと考えたのがわかったかのように。

「お迎えに上がりましたよ、なまえさん」

今度は逃がさないと言ったでしょう。

鍵が開けられる音がやけに大きく聞こえた。


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