その日、赤澤吉郎が青春学園の近くにやって来たのは、たまたま近くに用事があっただけで、別にスパイをしようとかそんな他意はない全くの偶然の出来事だった。 聖ルドルフ学院のテニス部の部長である彼にとって、ここは云わば敵地だ。 だからそのまま立ち去ろうとしたのだが、フェンス付近の物陰に見覚えのある姿を見つけた以上、さすがに素通りすることは躊躇われた。 周囲を見回して誰も見ていないことを確認し、その人物に歩み寄る。 「おい──」 観月、と呼びかけようとした声は、喉の奥で止まった。 フェンスの向こうでは、短いスカートの裾を翻しながら、惜しげもなく素足を晒した少女達がテニスの練習に励んでいる最中だったのである。 「何やってんだ、お前っ!」 「静かにして下さい。気付かれてしまうでしょう」 振り向かないまま観月が言った。 むしろ気付いて逃げてくれと思わずにはいられない。 これが男子テニス部の練習中だったのならば敵情視察をしているのだろうと納得も出来たが、相手は女子だ。 しかも観月がカメラを構えているのを見てしまっては、頑張れよと応援するわけにはいかなかった。 「んーっ、いいアングルです。ここからならベストショットが撮れそうだ」 「ん? そ、そうか?」 観月を諌めようとしていたことを忘れ、赤澤は自らもフェンスに張り付いた。 男の悲しいサガである。 テニス三昧の毎日を送っているものの、赤澤も女の子が大好きな思春期の少年であることに変わりはないのだ。 「何を鼻の下を伸ばしているんです」 観月が虫けらを見るような冷たい目で赤澤を見た。 「腐っても部長なんですから、変態みたいな真似はしないで下さい」 「お前が言うか!?」 「静かにしろと言ったでしょう」 思いきり足を踏んづけられ、赤澤はぐぅっと呻いた。 悲鳴をあげなかった自分を褒めてやりたい。 もしも今テニスコートにいる少女達が彼らに気が付いたら、色白の知的な美少年が色黒のサーファー系イケメンを虐待している光景を目撃するわけだ。 しかもその男子は他校のテニス部員で、片方はカメラを所持しているという、どう考えても言い訳のきかない状況だった。 「!隠れて!」 赤澤をどついて退かせた観月が、自らも木の陰に身を隠す。 観月にどつかれた部分を手でさすりながら赤澤がそっと陰から覗いてみると、黒髪をポニーテールにした一人の少女がきょろきょろと辺りを見回しているのが見えた。 テニスウェアから覗く首筋や手足は白く、細い。 全体的に華奢な造りの小柄な身体は、スポーツをやっている割には柔らかそうな印象を受ける。 距離があるのではっきりとは見えないが、可愛らしい少女だ。 少女は頭の周りにハテナマークを浮かせて小さく首を傾げると、また練習の輪の中に戻っていった。 ラケットを手に駆けていく後ろ姿が眩しい。 その間ずっと赤澤の隣からはシャッターを切る音が続いていた。 「もしかして、あの子が七瀬なまえか?」 「ええ、そうです。あの一際テニスが上手くて可愛い子がボクのなまえくんです」 カメラを手に、んふっと観月が笑う。 『生え抜き組』の赤澤はまだ直接彼女と話したことはなかったが、テニススクールに通うスクール組のメンバーから、青学の女子テニス部一年生で、観月が世話を焼いているなまえという女子がいると話を聞いていた。 それが彼女なのだろうとアタリをつけたのだが、どうやら正解だったようだ。 「学校での様子も知りたいと思いましてね。ちょっと見に来ていたんです。お陰でいいデータが取れました」 「…なぁ観月。それストーカーと紙一重だぞ、分かってるか?」 「馬鹿なことを言わないで下さい。これは単なるデータ収集ですよ」 いかにも小馬鹿にしたような表情と口調で言われた赤澤は口を閉じた。 確かに脳みそのデキは観月のほうが上かもしれないが、自分は間違っていないはずだ。 でも、口では勝てないことも理解していたため、それ以上不毛な言い争いをするのはやめておいた。 ただ、なまえという女子には逃げてくれと願わずにはいられなかった。 |