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連絡があってから、きっかり20分。

キッチンで夕食の支度をしていた私は、玄関の鍵を開ける音に気づくと、急いでそちらに向かった。

「お帰りなさい!」

「ただいま。美味しそうな匂いがしているね」

「あ、たぶんバターソースの匂いだと思います。鯛のポワレをカリフラワーのバターソースで食べる予定なので」

「それは楽しみだ」

「先生、鯛はお好きですか?」

「君が作るものなら何でも喜んで頂くよ」

まるで恋人同士のようなやり取りに面映ゆくなりながら寂雷先生から畳んだ白衣を受け取ると、ランドリールームに行き、洗濯機に白衣を入れてスイッチオン。
先生が着替えている間にキッチンに戻って料理を仕上げにかかった。

「美味しそうだね」

部屋着に着替えた先生がキッチンにやって来て、私の手元を覗き込む。

「ありがとうございます」

「何か手伝うことは?」

「大丈夫です。お疲れなんですから、座ってゆっくりしていて下さい」

「年寄り扱いとは悲しいね。私では役に立たない?」

「そ、そんなことはっ」

「では手伝わせてくれるね?ああ、これはサラダにするのかな」

「はい、お願いします」

先生は優しい。

お医者様である先生は毎日忙しいはずなのに、こうして進んで家事を手伝ってくれるし、何より、どこにも居場所がない私をこの家に居候させてくれている。

ある日、仕事帰りに気がついたら全く知らない場所に立っていた。

スマホで現在地を調べようとしたら何故かエラーになるし、家に帰ろうとしても、そもそも自宅のある場所が存在していなかった。

完全に混乱して泣いていた私に声をかけてくれたのが寂雷先生だった。

医師だという彼は、様子がおかしい私を心配して声をかけてくれたのだった。

そこで先生から聞かされた、耳慣れない言葉の数々。

武力放棄法案。
精神干渉装置、ヒプノシスマイク。
政治の中枢である中王区への男性立入禁止。
女性首相の統治による女尊男卑の横行。

私が飛ばされたのは近未来の異世界日本だった。

その日からずっと先生の家にお世話になっている。

「明日は一緒に出掛けよう」

「お出かけですか?」

「そう、少し早いけれど君の夏服を買いに行こう」

「そんなっ、そこまでして頂くわけにはいきません。今ある服だけで充分です」

「遠慮しなくていいんだよ。私が夏服を着た君が見たいんだ。きっと可愛いのだろうね」

「せ、先生っ!」

「ふふ、照れている君も可愛いね」

「もう…あまりからかわないで下さい」

「ひどいな。私の想いを疑うのかい?」

「さ、さあ、出来ましたよ!冷めないうちに食べましょう!」

楽しそうに笑っている寂雷先生の背中をぐいぐい押して行って椅子に座らせる。
テーブルには、鯛のポワレにカリフラワーのバターソースをかけたものと、じゃがいものポタージュ、細く切った豆腐をレタスと生ハムで包んだスティックサラダが並んでいた。

「いただきます」と手を合わせてから食べ始める。

「君が作る料理はいつもとても美味しいね」

鯛のポワレを食べた先生がしみじみとした口調で言った。

「ありがとうございます」

「今日も同僚に話したら羨ましがられてしまったよ。可愛いお嫁さんをもらったようなものじゃないか、とね」

「も、もうっ、またそんな風にからかうんですから!」

「からかっているわけではないのだけれど、困らせてしまったのなら謝ろう。君に嫌われたくはないからね」

「私が先生を嫌いになるなんて絶対ありません」

「本当に?では、期待してもいいのかな」

「でも、私は…」

「『いつかは帰ってしまうかもしれない』?」

私は頷いた。
だって、私はいつかきっと元の世界に帰れると信じて頑張ってきたのだ。
それなのに。

「帰さない、と言ったらどうする?」

「せ…先生…?」

私を見つめる寂雷先生の瞳の強さにたじろぐ。

「もし、その時が来ても、この腕の中に君を捕まえて離さないと言ったら、君は私の傍にいてくれるかい?」

「先生、私……」

「ごめん、意地悪な質問だったね」

寂雷先生は、ふっと表情を和らげて微笑んだ。

「でも、先ほど言った言葉は私の本心だから、覚えておいてほしい。そして、出来れば、私の想いに応えてくれたのなら嬉しいと思っているよ」

ごちそうさま、と言って後片付けを始めた先生に、この話題はおしまいなのだと悟ってほっとする。

正直な気持ちを言えば、元の世界に帰りたい。

でも、寂雷先生の存在が私の中で日に日に大きくかけがえのないものになってきているのも確かだった。

もし本当に“その時”が来たら、私はどちらを選択するのだろう。

未来はまだ深い霧の中にあるように不確かなままだった。


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