ルブタンのピンヒールには憧れるけれど、たぶん履かないまま人生を終えるだろうと思っていた。 通勤には安全のためにフラットなパンプスを履くようにしているし、プライベートでもそこまでヒールの高いものは履いたことがない。 履き慣れないから、どうせ似合わないからと、今まで手を出そうとはしなかったのだ。 それがいま、私の足元に跪いている寂雷先生の手によって、恭しい手つきで履かされそうになっている。 「あ、あのっ」 「ん?」 長い髪をさらりと揺らして小さく首を傾げる先生の綺麗に整った顔には全く邪気がない。 この行為を純粋な気持ちで楽しんでいることが伝わってくる。 ヒプノシスマイクと関係ないところでは、彼は非常に穏やかで優しい人格者なのだ。 「私からの誕生日プレゼントだよ。受け取ってくれるだろう?」 そう言われてしまえば、否やは言えない。 ちなみに、今日の先生は長い髪を後ろで一つにまとめて太い三つ編みにしてある。 出掛ける前に私が編んであげたのだ。 「ほら、ぴったりだ。思った通り、よく似合っているよ、シンデレラ」 「うう…」 「そんな困った顔をせずに楽しむといい。さあ、立ってごらん」 店員さんの愛想笑いとはまるで違う、心からの優しい微笑みを浮かべて促す先生に、無理ですとは言えずにその手を取って立ち上がる。 途端に上手くバランスが取れずによろめいた身体を寂雷先生が危なげなく支えてくれた。 「どうだい?初めてのピンヒールの感想は」 「何だか落ち着かないです」 「最初はそうかもしれないね。でも、すぐに慣れるよ」 先生にそう言われると、本当にそんな気持ちになってくるから不思議だ。 「支えていてあげるから、ゆっくり歩いてみなさい」 「はい」 先生の声はまるで鎮静剤のように私を落ち着かせてくれた。 マイクが無くてもこれだけの効果があるのだから、凄い。 モデルのように優雅にとはいかなかったけれど、先生の手を支えにしていたからちゃんと真っ直ぐ歩くことが出来た。 いつかは私もピンヒールで颯爽と歩いている中王区の女性達のようになれるだろうか。 「そうなると少し寂しいな」 「えっ」 「いつまでもこうして君を支えていてあげたい。だから、このピンヒールは私と一緒に出掛ける時だけ履くようにしてくれないか」 「はい、寂雷先生」 「あとはその呼び方だね」 先生は小さく笑って私の頬を撫でた。 「“先生”はいらないといつも言っているのに」 「でも、先生は先生ですから」 「君は案外頑固だから困る」 ちっとも困った風ではなく、むしろ嬉しそうに微笑んで先生は言った。 結局、ピンヒールはそのまま履いて行くことになり、スマートに支払いを済ませてしまうと、先生はそのまま私の手を取って店の外へ出た。 「予約した食事の時間までまだ余裕がある。このまま少し歩こうか」 「はい、寂雷先生」 「では、参りましょうか。姫君」 優雅に一礼してみせ、ネオン輝く夜の街をエスコートしてくれた寂雷先生は、お医者様というよりも高貴な王様のように見えた。 もちろん、私にとって彼が唯一無二の愛しいひとであることは言うまでもない。 |