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走る。
真っ暗闇の中、どこをどう走っているのかもわからないまま、ただ走る。

立ち止まればたちどころに捕まってしまうことがわかっているから、ひたすらに逃げた。

早く。少しでも遠くへ。

足がもつれて転びかけたのを、慌てて体勢を立て直して何とか前進を続ける。
すると、目の前が急に開けた感覚があり、正面から風が吹き付けてきた。
潮の香り。
海だ。
いつの間にか、堤防まで来ていたのだ。

海の一部が青く発光している。
堤防に寄せて返す波が青く光っている。

「夜光虫ですよ」

夜の闇をヒトの形に固めたような黒い人が立っていた。
喉の奥で悲鳴が凍りつく。
白皙の美貌が浮かび上がって見えて背筋をざわめかせた。

「鬼ごっこはもう終わりですか?」

いっそ優しく聞こえる甘いテノールが尋ねてくる。
返事の代わりに聖羅は一歩後退った。
もうあと一歩下がれば夜光虫が漂う海の中へ真っ逆さまに落ちるだろう。

「大丈夫、痛くはしません」

医者が患者を宥める時のような声音だと思った。
実際、こんな医者と向き合ったら逃げ出してしまうに違いない。
今さっきそうしたように。

「さあ…聖羅さん」

白い手袋に包まれた手が差しのべられる。
首を振って拒絶すると、彼はまた一歩距離を詰めた。
じわり、じわり、と近づいてくる。

後ろは海。前は殺人鬼。
逃げ場を無くして震えるしかない“獲物”を前に、彼は実に楽しそうに笑っていた。
きっと追いかけている間もずっとそうして笑みを浮かべていたのだろう。

「大丈夫、怖くありませんから…ね」

「い…いや……」

「ほら、怖くない」

怖くないわけがない。
震える聖羅を彼は包み込むように抱きしめる。
微かに香るひんやりした甘い匂いはこの男に相応しいと思った。


「捕まえた。もう逃がしませんよ、聖羅さん」


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