【40】



 青年は片手で俺の手首を押さえ、もう片方の手で衣服を剥ぎ取ろうとしてきた。上半身を這う包帯に巻かれた手を掴み、必死に身体を捻る。俺の行動に不満を示すように獣のような唸り声を発する青年が、大口を開けて噛み付いてこようとしてきた。
 食われる!
 恐怖のまま振るった腕が青年の顔に当たりぐらりと体勢が崩れた。
 俺の手首を掴む力も一瞬弱まり、俺はまたとないチャンスに全力で青年を振り落としにかかる。青年が傾いだ方向に転がり、腹に乗っかっていた足が浮いたところで青年に蹴りを入れた。
 青年の身体が吹っ飛び、俺は慌てて距離を取った。

「な、なんなんだよ……っ! お前、いきなり、どうして……!?」

 女の化け物の存在が尾を引いてる中、青年の暴挙に身体が震えて立ち上がることができず、尻でじりじりと後退った。青年は俺に背を向けて蹲り、ごほごほと咳き込んでいる。強く蹴り過ぎたか? と青年のことが心配になったが、今の彼に近寄ることは出来ない。肩で息をして青年の動向を伺う。

「――――ッ! ――……、ゥ、ゥゥゥ……ッ!」

 青年は苦しそうに床を掻き毟り俺に背を向けたまま這いずっていく。俺から距離を取るように進んでいく青年の動きに動揺した。
 な、なんだ? どうして俺を襲ってこないんだ? 

「お、おい……。本当に、お前、大丈夫か……?」
「――ッ! ゥゥゥ――――ッ! ギギ………」

 歯を食いしばって何かを耐えている声に、俺は青年の異常にようやく気付いた。
 女の化け物が髪の毛を振り乱し、胞子のようなものを被ってから青年はおかしくなった。青年はそれに抗っているのではないか。それに思い至り、俺は先ほどの自分の行動に血の気が引いた。

「あ、お、お前、もしかしてさっきの化け物の攻撃で変になってるのか……? ど、どうやったら治るんだよ……。あ、う……」

 俺は情けなく慌てふためいた。足はまだ震えているが手で支えてなんとか立ち上がる。そのまま青年に駆け寄ろうとしたが、その気配に気付いた青年が金属音の咆哮を上げた。その気迫にびくりと身体を震わせて立ち止まる。
 俺は、どうしたらいいんだろうか。
 青年は荒く息を吐いて部屋の隅に行こうと這いずり続けている。俺から距離を取るために。俺に危害を加えないために。……俺は彼の力になれないのだろうか。
 俺はやはり足手纏いで、何もできずに苦しむ青年をただ見続けるしかできないのだろう。
 暗い気持ちに陥りかけ、俺は慌てて頭を振る。今ここで思考停止しても青年のためにはならない。なんとかしなければ、なんとかしないと。

 でも、どうしたらいい?

「…………う……」

 俺は足手纏いだ。何も出来ない。苦しむ青年を助けることもできない。
 化け物から守ってくれた青年を、助けることができない。俺は駄目な奴だ。
 俺は何も出来ない。俺は何も、役に立たない、いるだけでも邪魔な存在なんだ。

「お、俺、おれ、何も……」

 しょうがない。俺が役立たずで出来損ないなのは仕方が無い。
 そんなことよりも青年を助けないと。苦しむ彼を楽にしてやらないと。
 俺は混乱する思考でなんとか考える。どうしたらいい、どうすれば……。

「そ、そうだ。アリスに……」

 青年がどういう状態なのか分からない今、ここのことを俺よりも詳しいであろう赤毛の少女のことを思い出して顔を上げる。大丈夫だ。幸いアリスがいたところは廊下一つ分の距離だ。すぐに行ける。光明に声を明るくして、俺は苦しげに這いずる青年に声をかけた。

「ま、待っててくれ! 今アリスに助けに来てもらうから!」

 そう言って廊下に飛び込む。走ってすぐに隣の部屋に着き、俺はアリスの名前を叫んだ。だが、赤毛の少女の姿はどこにも無かった。泉のある部屋はシンと静まり返り、俺の大声だけが響いている。俺は泉の縁にすがり付いて彼女を呼ぶ。

「アリス! どこにいるんだ!? た、助けてくれ! あいつが変になって、俺どうすればいいか分からなくて……、アリス! 頼む! アリス!」
「もぅ! うるさい!」
「うおっ!?」

 泉の中からするりと出てきた彼女は、怒った顔で骨を投げつけてきた。頭にぶつかった骨はパキャッと軽い音を立てて砕け、中から血のようなものを撒き散らす。自身に降りかかったぬるりとした液体に叫びそうになったが歯を食いしばり、泣きそうになりながらアリスに助けを求めた。

「こ、こういうのは、や、やめてくれ……。ご、ごめん、アリス。助けてくれ……あ、あいつが変になって……俺どうしたらいいのか、わ、分からなくて……」
「何、どうしたの? あいつって、あの人のこと?」
「そ、そう。あの、それで、あいつ、女の化け物の胞子みたいなのを被ってから、俺に襲い掛かってきて……、い、今隣の部屋で苦しんでるんだ。アリス、なんとかならないか!? 頼む、苦しそうなんだよ……助けてくれ」
「そんなに泣きそうな顔をしないの! 多分あいつの攻撃を受けちゃったんだね。これを打ってあげて」
「打っ……?」

 アリスに渡されたのは手の平にすっぽり収まるサイズの細い円筒状のものだった。
 どうやって使うのか分からずにアリスに顔を向けると、彼女は流れるように泉の縁に手をかけ、お互いの顔が触れ合いそうなほど近くに寄った。怒ってるような真剣な顔を間近で見て俺はそんな状況じゃないというのにドキリとした。

「ボクはここから離れられないから、君が頑張るんだよ。これは眼球の液っていう注入液。ライアの毒だったらこれで中和できるから」
「が、眼球……!?」
「そこは気にしないでちゃんと聞く! これ、筒の後ろをグッと押すと反対の方から針が出てくるから首にでも刺して使って」
「針!? く、首に……!?」
「はい! さっさと行く! ここにいても良くならないんだから!」
「は、はい! 行ってきます! アリス、ありがとう!」
「……うん。あの人を死なせないであげてねー」

 泉の縁に寄りかかる彼女が手を振り見送る。アリスに背を向けて俺は隣の部屋に向けて走った。短い廊下を走り、折れ曲がって部屋に飛び込んだ。

「お、おい! 薬! 薬を持ってき……た……?」

 数歩進んで立ち止まった。部屋の隅に移動していた青年がいるであろう方向に顔を向け、俺はそこで蠢く塊が何か分からずに立ち尽くす。断続的な金属音がしていた。
 蠢く塊は俺に背を向けて、団子虫のような身体を収縮させて何かの上に乗っかり押さえつけている。そいつは三匹いて、団子虫から伸びるボサボサの髪の毛をゆらゆらと揺らしながら無心に何かをしている。部屋の隅に、三匹が何かに集り、腕を振り下ろしている。

「…………」

 俺はそれをただ見ていた。
 そいつらの隙間から見える赤色だとか、なすがままに揺れる足だとかをぼんやりと眺めながら、馬鹿のように口を開けていた。

「グッ……、ギッ……ァ……、ァ……」

 金属音が聞こえる。
 それは聴き慣れた青年の声でもあり、金属に覆われた床に何かを突き刺す音でもある。
 俺はそれらが何かを理解して、全身から力が抜けていくのが分かる。 
 何度も振り下ろす鞭は、硬質なものらしい。床に刺さり、ガンガンと音を響かせている。無数の足を蠢かし、放り出された足をも覆い、赤色が床に広がっていく。

「…………」

 怖くなった。
 俺は非情にも逃げを選んだ。
 生きてるかもしれない青年を見捨てて、俺は今しがた通ってきた廊下に後退る。隣の部屋にいけばアリスがいるし、ここのことを俺よりも知っているアリスならなんとかしてくれるのではないか?
 あれは、もう駄目なんじゃないか。青年はもう助からない。
 俺じゃ助けられない。剣もロクに振ったことが無い俺が、青年すらてこずった化け物を三匹もだなんて、無理だろう。
 俺は部屋の隅に集る三匹に気付かれないようにゆっくりと後ろに後退した。これは、俺が悪いんじゃない。運が悪かっただけなのだ。そうだ、俺はちゃんと青年を助けようと、苦しむ青年を助けようとして、他の部屋に行っただけなんだ。こんなことになるだなんて、思ってもみなかった。

 青年はもう助からない。微かに聞こえていた金属音ももう聞こえなくなった。無理だ。諦めろ。俺だけでも助かろう。
 そう思い、後ろに一歩下がった。その瞬間、妙な感覚が俺の身体を襲った。

「え……?」

 それは、衝撃だった。身体を何かが通過した感覚。俺は呆けて自身の身体を見下ろす。俺の腹から湾曲した刃物が生えていた。鎌を大きくした形のそれは、刃の部分が上を向いている。それが前後に動きだした。俺の腹から出し入れを繰り返す刃物は徐々に胸を目指し、俺は震える手でそれを掴んだ。

「あ、ぅぁ……やめ、やめて……」

 俺の懇願は聞き入れてもらえず、少しずつ身体を裂かれていく。
 ようやく認識し始めてきた痛みが、内臓を切り開かれていく未知の衝撃と相まって吐き気を催した。

「ぁ、やめ、い、イダ、ぁっ、ぅぁっ……?」

 足から力が抜けて崩れ落ちそうになるも、俺の身体から生える刃物が許さなかった。むしろ俺の体重がかかって胸を裂く速度が速まる。前のめりになり、湾曲した刃物の切っ先が目の前にまで来た。

「ぁ、ぁ、っ、ぅ…………っ…………」

 熱い。痛い。寒い。冷たい。分からない。
 あまりの痛みに目がぐるりと回転し、ごぼりと口から血を吐き出す。気持ちが悪い。痛い。痛い。傷つけられた肺が痙攣し、異物を吐き出そうと空気の塊を吐き出す。赤色の液体がぼとぼとと床に散らばっていく。それを見ていた目に、湾曲した刃物の切っ先が食い込んでいく。
 さらなる痛みに身体が跳ね上がったが、後ろから後頭部を何かに押さえつけられていて逃れることができなかった。切っ先が目の中を前後に切り裂いていき、痛みに必死に抵抗をしようとした。
 だが、真ん中から切り開かれていった身体は小刻みに震えるだけで俺の言うことを聞かず、口から無意味に音をこぼすぐらいしかできなかった。

「ア゛ッ、ア゛ァヴァ゛、グヴォェ、ァ゛ァッ」

 音と一緒に赤色が撒き散らされる。目の中を刃物が前後する。眼窩に至り、それでもなお止まらない刃物の動き。後頭部を押さえていた何かが力を加えて、刃物が届いてはいけないところにまで到達する。

 そこから痛みは無かった。

 ただ変な感覚だけがあった。
 頭蓋骨の中を掻き乱され、中の何かをぐちゃぐちゃにされているような、変な感じがした、変な感じがして、ヘンンで、いタいくもなく、いいい、痛クへんな、あいいいいいああああ、あああああ、ぐちゃぐちゃと、おおおおおおおおと、おとが、にクが掻きマぜられ、あ、あぁあああ、あああああ、あああああ、アアアアアア、ああああ、ああ、ああ、あ、あ、あああああ、あああ、あああ、ああああ、


 肉を掻き混ぜる音だけが聴こえていた。






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