【39】



 ふらふらと上体を揺らしながら近付いて来たのは黒髪の女の人だった。うつむき、長い髪を垂らして滑るように動くそれを、青年の背中から見守る。青年やアリスと同じ、ここでは珍しいであろう人の形に俺は安堵した。剣から力を抜き、青年に声をかけようとした瞬間、青年がその女の人に向かって歩を進めた。
 そして、青年はその女の人に向かって剣を振り下ろした。

「えっ……」

 女の人の身体を斜めに切り裂いた直後、絶叫が上がる。手入れのされていない長い髪の毛が振り乱され、口からは人間のものとは思えない、まるで虫が上げるような身の毛のよだつ奇声が飛び出し、俺はここで初めてその女の人の全体像を目にした。
 女の人の下半身は黄土色の団子虫のように、動くたびに伸縮を繰り返す襞になっていた。俺はそれを目にした瞬間、ぞわりと全身に怖気が走った。
 女の人の腕は人のように五指に分かれてはおらず、鞭のように真っ直ぐと伸び、カマキリのように腕を振り上げて青年に攻撃を仕掛けた。

 青年は剣でそれを防ぐ。俺は情けなくも身動き一つ取れずにただそれを眺めていた。女の人は両腕を前に突き出し、青年を抱え込もうとする動作をした。青年は慣れたように避けて反撃をする。女の人の攻撃を一つも貰うことなく、その身体に少しずつ傷を増やしていった。
 俺は間抜けてそれを眺めていた。
 女の人の生理的に嫌悪を催す気色の悪い姿に萎縮しているのもあるが、青年の手馴れた戦闘に俺の必要性が感じられず、青年の背中をぼおっと見ていた。

 重なる傷に、女の人の動きが鈍くなっていく。
 もうそろそろ倒れるか、と思ったとき、女の人がいきなり大きく頭を振り乱した。髪の毛がバサバサと乱れ、何やら胞子のようなものが周りに広がる。

「……っ!!」

 青年がまともにそれを浴びてしまい、ぐらりと体勢を崩した。

「ぅ、ぁ……、……っ!」

 俺は青年の危機に駆け出そうとした。が、身体が言うことを聞かず、一歩を踏み出して止まってしまった。俺の目の前で女の人が腕を振り上げる。動け動け! と頭の中で命令が飛び交う。このままでは青年は死んでしまうのではないか。青年が殺されてしまうと、俺は剣に力を込めて駆け出した。
 心臓を取られて、生気の無くなった目で空を見上げる青年の死体を思い出した。そんなことにさせてたまるかと、俺は女の人に向かって剣を突き出した。

 バチン! と鞭が肉を打つ音がした。だが痛くは無い。ずぶりと俺の手に確かな手応えが返って来る。
 絶叫があがった。それは女の人の口から迸り、俺は間近で女の人の顔を見てしまった。ぎょろりと俺に向けられた目が、数度の痙攣の後にぐるりと瞼の下に逃げて、力を失った上体が倒れていく。
 俺は女の人の身体に埋没した剣を引っ張られるまま手放した。
 どさりと女の人が倒れて、びくびくと血が広がっていく。

「……あ、……」

 広がっていく血溜まりに呆ける。
 数秒その場に立ち尽くし、そして青年のことを思い出して慌てて彼を見た。
 俺が駆け出すのが遅かったせいで、青年はあの鞭の攻撃をまともに受けてしまった。床に身を伏せて、何やら身悶えている青年の様子に血の気が引く。

「お、おい! 大丈夫か!?」

 傍に屈んで青年の肩に手を触れようとすると、青年に手を振り払われてしまった。

「ぅ、お、おい、大丈夫か……? ごめん、助けに入るのが遅すぎた……。怪我、してるよな?」

 片手で顔を覆い、息の荒い青年を気遣う。俺の目の前に突き出された手は、止まれということなんだろうか。手が小刻みに揺れ、肩で息をする青年の尋常じゃない様子に俺は自分が情けなくなった。足手纏いにならないようにする、と言ったそばからこれだ。青年が俺に対して失望するのも頷ける。俺はたまらずに突き出された手を握った。

「ごめん! おまえが俺に失望するのも分かる。俺、ま、まさかあんな、……あんな気持ちの悪いものがいるなんて思わなくて、足が竦んで……。おまえの助けになろうと思ったのに、こんな体たらくで……。……い、いや、言い訳は後だよな。ごめん。それより、怪我は大丈夫か、俺に見せてく」

 言い終わらない内に、衝撃が身体に襲い掛かった。床に背中を打ちつけ、受身も取れずにかひゅっと口から空気が漏れる。内臓にかかる負担に、苦しさから丸まろうとした身体を上から抑える手があった。天井を見上げるはずの視界の中に、青年の顔があった。

「え……?」

 青年は荒い息を吐き出し、正気じゃない目で俺を見ていた。腹に青年の膝が乗り、身動きが取れないように押さえつけられている。先ほどの衝撃は青年に突き飛ばされたからだと認識した頃には、目の前で獣のような唸り声をあげる青年が、やがて大口を開けて俺に迫ってきた。

「お、おい! どうしたん、い゛っ!?」

 首元に顔を埋める青年が、何かを探すようにごそごそと動く感触に鳥肌が立つ。次の瞬間激痛が走り、俺は青年に噛まれたことに驚いて無茶苦茶に身体を捻った。青年の拘束から逃れようとしたが、それを抑えつける力がとてつもなく、骨が軋むほど強く握られた手首に苦鳴を漏らす。
 食われる、と思った。
 ぎちぎちとさらに食い込む歯にとうとう悲鳴をあげる。そのまま食いちぎられる妄想に、恐怖が勝手に涙を流させた。

「い゛、痛いっ!! やめてくれ!! どうしたんだよ!! やめろ、やめてくれ!!」

 俺の言葉に耳を傾けてくれたのかそうではないのか、青年が首元から少し顔を上げる。すぐ近くで唾を嚥下する音が生々しく聞こえ、耳をべろりと舐められた。

「やっ、……やめろ!!」

 圧し掛かっていた青年がゆらりと身体を起こした。
 青年の表情が見てとれて、俺はその異常さにぞっとした。
 頬を上気させて口の端から涎を垂らし、荒い息を吐く青年は俺を見ているようで見ていない、どこかピントの合っていない目をしていた。
 理性が吹っ飛び、興奮のまま呼気を荒くする青年。俺は、彼のその様子に嫌な想像が脳裏を過ぎった。
 その想像は、青年の手が俺の服を剥ぎ取ろうとした瞬間に確信に変わる。
 俺は、青年に【そういう意味で】襲われている。それを理解したところで、俺は先ほどとは比にならない程抵抗した。


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