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あれは一体誰なんだろう。己がよく知っている騎士団長の姿から程遠く、頼りなげに視線をうろつかせ、健康状態に難を兆している顔色を隠すようにしている彼の姿など、自分は見たことがなかった。見るたびに失望と憐れみ、あの騎士団長と比較するのもおこがましい羞恥心に、目をそらしたくなる。けれど、あれは俺の罪。今のアレクセイの姿は、十年間彼の言葉を、気持ちを無視した俺の罪。償うだなんて大層なことは言わないが、せめて彼が生きている今、記憶を亡くす前には叶わなかった味方を演じようと思っている。
「あぁ、でもあれは……」
宿屋の厨房。そこで働いている人間からおにぎりを分けてもらいつつ、アレクセイの待つ二人部屋へと重い足取りで階段を登る。
さきほどの親衛隊のことを思い返し、そして己の言葉を半信半疑ながらも信じているアレクセイのことを、思い出す。あれは、信じやすすぎる。この宿屋にアレクセイがいることはもうバレているだろう。それでも大丈夫だなんて、そんな確証の無いことをどうして信じられるのか。
実際に、このまま襲撃してきてもおかしくはない。それをされないように手は打っておいたが、夜にはアレクセイを奪還するためにこの宿屋を襲撃してくるだろう。あいつらはそれほどまでに盲目なのだ。
階段を上がりきったところで足を止める。廊下の先、四個目の扉が目的の部屋だ。ラップに包まれたおにぎりが載った皿を片手に頭を掻く。アレクセイの言葉が頭をよぎり、情けなさやら恥ずかしさやらで力を強めた。
『頼りになるよ』
「〜〜〜〜、あぁ、そうですかっ!」
小さく嘆息する。
今のところ、一番アレクセイの信を得ているのは自分だろう。自惚れではなく、あの人の表情やら言葉を交わしている語調で分かる。
心を閉ざし、フードを目深に下ろす今のアレクセイからの無防備な言葉に、意味の分からない羞恥を感じる。それは先ほどの憐れみが混ざったものではなく、ただ純粋にその言葉から受けたものだ。なんだというのだろう。
部屋の前で悶々としていてもしょうがないと、腹に力を込める。ノックして「入るぜ〜」と一声をかけて扉を開いた。
「あれ? 寝てる?」
待っているはずの主は、ベッドに腰掛けたまま横倒しに枕に頭を預けていた。フードのせいで顔を見ることはできないが、規則正しい呼気に寝ていると思われる。
「おーい、本当に寝てる?」
確認のため近づいてフードをつまみあげる。色の優れない顔があり、その目は閉じられていた。数秒観察した後、そっとつけたままだった眼鏡を外し、フードを下ろす。ベッド横のテーブルに畳んだ眼鏡と皿を置いた。
本人から聞いたわけではないが、夢見が酷く悪いらしいアレクセイは寝ることを拒絶している。それが健康状態に差しさわりがない程度なら良いのだが、彼は限界まで睡眠を我慢している節があった。睡眠を取らずに生きれる人間なんていない。その限界が今だったのだろう。
「俺としては寝てくれる方がいいんだけど……。とりあえず、この体勢は身体を痛めるわな」
ベッドから下ろされている両足を上に乗せ、靴を脱がせる。身体の下にあるシーツを引っ張り出し、かけてやった。フードも脱がせた方が良いかと思ったが、ふとアレクセイの腕をとって体温を計ってみた。かさかさしている手は血の気が無く、枯れた老人の手のように冷えていた。
「……あったかいもんでも飲ませておいたら良かったかねぇ」
これじゃあ自分とそう変わらないんじゃないだろうか。
偽物の心臓は金属で固定されて冷えているためか、この身体は生きていた頃よりも常に体温が低い。記憶を失う前のアレクセイは、そのことを酷く気にかけていた。実際に触れると金属特有の冷たさがあるわけじゃない。接した人肌部分から熱が移って、生暖かいか、ぐらいの温度はある。だが、外気にも影響されやすく、冷えた場所に長時間いると偽物の心臓に負担がかかってしまった。
この状態に慣れているものだからあまり実感は無かったし、それを気にするアレクセイに対して何も思わなかったが、今目の前にある体温の低さには不安を覚えずにはいられなかった。
あのときのアレクセイも、こんな気持ちだったのだろうか。
魔導器に接している人の部分と金属に手のひらを押し当て、眉根を寄せて何やら考え事をしている顔。その口が何かを言った。何を言ったんだったか?
「…………覚えてるわけねーわ」
何もかもがどうでも良かったのだ。与えられた任務の内容さえ聞いておけばよかった。それ以外は何も感じずに、何も考えずに動けばよかった。
その他のものは、人の領分だから。死人である俺が関与するものではなかったから。
気付けば、乾燥した手を何度もさすっていた。体温が低い者同士、その手が温まることは無い。このまま冷えていく錯覚がして、両手で包み込む。熱を移そうと躍起になっている自分に気が付いて、ふっと自嘲した。
「あー、大将。……名残惜しいでしょうけど、俺ちょっと用事があるんで出てきますね。なぁに、あんたが起きる頃には戻ってこれるでしょーよ。……怖い夢を見るんだったら、また胸を貸してやりますしねぇ」
こんな、冷たい金属が埋め込まれた偽物の身体でもよければ、ですけど。
言ってはいけない気がして、その言葉は飲み込む。
握っていた手を離して、シーツの下に押し込んだ。部屋の中は十分に暖かい。少しの間放っておいても問題は無いだろう。
部屋の扉に向かい、壁に付けられた照明のスイッチを見て消すかどうかを迷い、結局消さずに出ることにした。
「そんじゃ、いってきまーす」
とりあえず、俺の今の仕事はあの面倒な親衛隊と話を付けることだろう。
暴力沙汰だけは勘弁してくれよ〜、と願いながら部屋を出た。
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