【28】



 痴呆者のように口を薄くあけて地面を見る角女は、たった今、その瞬間に命が絶たれたように微動だにしなかった。角女に背中を向けていた青年は、そんな女の挙動に気付かずに口を動かして何か話す素振りをし、その場に声が響かないことに怪訝そうに振り返り事態を知った。
 青年が慌てたように角女の揺さぶったが、されるがままに揺れる彼女に、嫌な予感に指先が冷えていく。もしかして、彼女は死んだのか?
 何回か揺さぶられて、青年が深く息を吐いて手を止めた。椅子の背もたれにぐったりと身体を預ける彼女は何も映さない目で空を見上げている。その姿は死人だった。あまりのことに息を呑み、恐怖に震えそうになる。身体が膠着し、その場から動けず角女を凝視していると、彼女の目がゆっくりと瞬いた。

「え?」

 青年がこちらに向き直り、俺はその動きを目で追う。彼の顔はやれやれといった緊張感の無い表情で肩をすくめた。何か考えるように顎を上に向け、疲れを含んだ深いため息を吐く。角女を見ると、かすかに胸が上下しているのが見えた。彼女は俺が予感していたような事態に陥っていなかったようだ。
 青年とは違い、安堵の息を吐く。良かった、死んでない。
 この夢の中はほとんどが赤色に満たされ、しかもさっき本物の死体を見たから悪い想像をしてしまったんだ。いつの間にか力が入っていた身体から徐々に緊張が解けていく。

 何も考えられずに立ち尽くしていると、再度青年に手首を掴まれて顔を上げた。黒い目とかち合い、十分に水分を含んだ色にぼんやりと「人の目を見るのは久しぶりだな」と思った。生きた人の目をした青年を眺め、手を引かれる。青年は俺をまたどこかに連れて行きたいようだった。
 眉を下げてこちらの出方を窺う、見慣れた困った顔に思わず薄く笑う。なんだかおかしかった。控えめな性格をした子供が意思表示をしているような、そんな必死さの片鱗を感じてしまい、俺と同じくらいの歳に見える青年に失礼だとは思いつつも、「しょうがないな」と言葉をついてしまう。

「分かったよ。ここにいてもしょうがないし、お前の行きたい場所、どこにでも連れていってくれ」

 俺の言葉を聞いた青年は、俺が彼に会ってから初めて見る清々しい顔で笑った。今までの控えめな引き方ではなく、多少強引な、自信を持った力で俺を先導していく。青年の手に巻かれた包帯のザラつきが、歩くたびに手首を擦る。
 ガレージの閉まった建物の間を通り、広場に出ると愉快な気持ちが一瞬にして吹き飛んだ。羊水に浸かった赤黒い球体。全てを拒むように鋭い棘が生えた物体が何個も地面から半分顔を出した不気味な場所。

 歩を進める足が鈍るが、青年の力強さに負けてその球体たちの横を通り過ぎていく。今にも生臭さが鼻をつきそうな場所に、俺は目の置き所を探す。地上は駄目だと見上げる俺の視界に、妙な形の物が飛び込んできた。
 高い、塔?
 俺がそれをちゃんと理解する前に、立ち止まった青年の背中にぶつかった。

「なんだよ、いきなり止まるなよ」

 文句を言うと、青年はごめんと口を動かして謝った。

「……いいけど。なぁ、その……、あんまり聞きたいことじゃないんだけど、この気持ち悪い物体は……なんなんだ? なんでこんな物が地面にいっぱいあるんだ?」

 青年はこれが何か知っている様子で、俺に伝えようと手を少し動かしては止め、何かを口で伝えようとしては止めた。その動きから察するにどうやって伝えようか悩んでいるようだ。口許に手を置いて難しい顔をしている。

「それは感覚球だ」

 すぐ近くで聞こえた声に驚き見ると、手を伸ばせば届く距離にいた天使が、無感情な目で俺を見下ろしていた。反射的に後ずさり、俺の動きを赤い目が追う。

「あ、あんたは……」
「歪んでいないのか。何故お前みたいなものがここにいる」
「え?」

 聞き覚えのある言葉に、混乱した俺は目の前の男を見た。
 なんの汚れも見られない足首まである丈長の白いコートを纏った男。合わせられた胸部分には赤く縁取られた黒い十字架が刻印されており、下方部分は合わせ目の上に乗って裂かれていくように白いコートの裾を赤く縁取っている。十字架の左肩からもう一本直線が生え、俺の知っている形と少し違った様が畸形を連想させた。
 俺よりも背が高く、すらりとした男の背には天使を彷彿とさせる羽。
 端正な顔立ちは人間味がなく、俺を冷ややかに見下ろす赤い目が値踏みするように上下に動いている。染めたのではない金色の髪が白い肌に沿い、その全てが色鮮やかであるはずなのに儚く透き通っていた。

 赤黒い球体を背にした男。彼を見ているはずなのにその向こう側にある球体まで見えている。男の身体は半透明に透き通り、目を強く閉じて開けばそこにはもうその姿は無いのでは、と思わせた。
 このおかしな天使を、俺は前にも見た。

「感覚球はこの狂った世界に多く埋没している。情報の伝達、物資の転送をすることができる装置だ。創造維持神が狂ってからは全世界の人の目に触れることになったが、知らないのか」
「いや……、そうなのか?」
「どこから来たのか知らないが、……無理に詮索することでもないか……」
「あの、あなたは誰ですか?」

 男は整った眉を歪めた。俺の言葉を不愉快に捉えたというより、何かに耐えるようなそんな表情だった。

「私は上級天使だ。マルクト教団は、……お前は知らなさそうだな」
「マルクト教団……」
「神を護ることを使命とした教団だ。我々の神は世界を作り上げた創造維持神。生命の樹の一つ、聖霊を意味し、献身を本分とするマルクトを名に持つ我々教団の神。そのことも知らないか」
「……知りません」
「ならあいつらが手を加えた者でもないな」
「はぁ」

 よくは分からないが、知っていて当然の事なのかもしれない。
 俺に真っ直ぐに向けられる赤い目が居心地悪く、逃れるように青年を見る。彼は表現しがたい顔をしていて、目は俺と上級天使を行ったり来たりしていた。

「お前は……それを神経塔に同行させるのか?」

 上級天使の問いかけは青年に向けられていた。青年は苦しそうに視線をさまよわせ、俺を見て悩んでいるようだった。上級天使がそんな青年の様子に腕を組んで念を押すように抑揚の無い声で言った。

「忘れるな、己の使命を。その使命を果たすために役に立つのであればいいが、歪んでいない人間があの塔の中で生き長らえるとは思えない。無駄に動揺するだけだ。それでも行くというのなら私は止めはしないが」

 青年が慌てたように身振り手振りで上級天使に何かを伝えようとする。己の胸に手のひらを当て、俺を指さし、何かを喋ってそれからまた己の胸に手を当てる。注視していた上級天使が鼻で笑うようにして口の端を持ち上げた。

「お前の罪はあの塔で清算されるが、それもそうだとは……、いや、そうだな。もしかしたら……」

 顎に手を当て考え込む上級天使。そして俺に目を向けると「お前は何かに罪の意識を抱いているのか」と言った。
 その言葉に一気に二つの事柄が頭の中に浮かんだ。苦しく、思い出したくない事だ。
 俺の様子に上級天使が頷き、組んでいた腕を解いて手を前方に突き出す。

「行け。己の罪を、世界を癒せ」

 上級天使が突き出す腕の先、手のひらの前に電子世界で情報が集結し形作るよう、何かが形を得て重量をもって地面に落ちる。それは子供一人分ある大きさの長方形に近い白い銃だった。それを呆然と見ていると、隣の青年がそれを拾い上げる。上級天使はたいぎそうに頷き、俺に赤い目を向けた。

「お前の罪も、あの塔で癒されるかもしれん。彼について行け」
「俺の罪?」
「そこの男はこの世界を壊し、狂わせた。世界を創造した我々の神を狂わせたのだ。その罪を、世界を癒すために創造維持神のいる神経塔を下る。神経塔の上部はほとんどが感覚球で埋め尽くされている。感覚球は先ほども言ったとおり情報を伝達する機能を持っている。その情報は世界の情報だ。お前はそこで何かを得られる可能性がある」
「何かを?」
「そうだ。お前にとって重要な何かだ」

 俺にとって重要な何かを得られる、そんな男の言葉に戸惑う。それは、なんだろうか。

「救われたいか」

 俺の脳内には二つの事柄と男の言葉がぐるぐると舞っている。
 一つはビニール袋の中に入れられた、ぐったりとした肢体。
 一つはベンチに座って眠るようにした赤い男の、血を吐く姿。

「神経塔へ行け。死ぬな。己の罪を癒し、答えを見つけろ」

 生まれてから一緒に、ずっと一緒に生きてきた猫。年若い姿が、老いていき、毛並みが悪くなり、それがビニール袋の中に入れられて、ぐったりとしている。頭から離れない。
 耳障りな音を立てるスピーカーの下、ベンチの背に力なく身体を預ける赤い男。口から赤い液体が淀みなく溢れ出し、胸を這い、脚を伝い、地面のタイルの溝に沿うように蜘蛛の巣状に広がっていく。頭から離れない。

 この男が言う、己の罪や答えは、俺にはどうでもよかった。けど、俺は自分を殺してから今までなんの目的も無く、考えることを苦痛に思ってきた。何も無いのは怖い。己を持つのも怖いが、足場が不確かな場所に立つのは不安定で恐怖を煽り、苦痛でしかなかった。
 男の言うことは分からないが、俺は何か目的が欲しかった。なんでもいい。なんでもいいんだ。
 だから俺はその目的を提示されて安心した。
 そうだ、答えを見つけろ、とは、文字通りの言葉だ。答えならなんでもいい。
 答えを見つけることが目的で、何に対しての答えかは後回しでいい。

 俺は役立たずで居る意味のない無力で価値の無い己の立場が苦痛で苦痛で仕方が無かった。何かをしたい。何か、誰かの役に立つことであれば尚良い。
 俺は青年を見る。彼は強く何かを訴えかける目で俺を見ていた。黒い目。人の目を見るのは苦手だが、何故か青年の目は見ることができた。それは青年に対して罪の意識がないからかもしれない。
 青年が何を思っているのかは分からないが、彼は俺を神経塔とやらに連れて行きたくてここまで引っ張って来たのだろうか。それは、俺を必要としたからか。他に理由があるのか。分からなかったが、俺はよろしく、と小さく呟いて苦しく笑った。
 青年は眉を下げて、よろしく、と小さく笑った。


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