【26】



 自分の情けない吐息が聞こえる。早くあの場所から離れなければ。壁伝いに移動をし、バランスを崩して地面に倒れた。
 ろくに受け身もとれず、咄嗟に前に突き出した右手の筋を痛め嫌な汗が噴き出る。それでもあの化け者共が戻ってくるかもしれないあの場所から離れたい一心で震える手で地面をかきむしった。

 遠くで誰かが駆けてくる音が聞こえて身体が跳ねた。前方から聞こえてくる足音に目を向けて息を呑む。この夢の中で唯一人間の形を保っている青年が、いつも通りの、どこも傷を負っていない状態でこちらに走ってきていた。
 褪せた紺色のコートを羽織った青年が目の前でしゃがみ込み、焦燥の顔で俺の身体をまさぐった後ほっと安堵した。
 「ど、うして……」と漏れ出た声に青年が顔を上げた。

「お、まえ……死んだんじゃ……」
「?」

 不思議そうに首を傾げる青年は、少しの間を置きハッとした。そして再度不思議そうに首を捻る。青年の頭の中で何が巡っているのか分からない俺は、眺めているしかなかった。俺の肩に置かれている青年の手は包帯で覆われているが、ちゃんとした暖かみがあった。あの死体が起きあがってきたわけではないようだ。

 いや、待て。コイツ本当に俺が知っている人間か?

 嫌な想像に血の気が引く。
 嫌疑の目で見れば目の前の青年がどこか違うように思える。
 青年はとりあえず俺を起こそうと決めたのか、立ち上がり腕を引っ張った。青年の助けを借りて立ち上がり、お礼を言って青年に背を向けた。

 金属ががなる声がして腕を引っ張られた。青年は眉根を寄せ俺がさっき捻った手首を見ている。青年の腕に巻いていた包帯をくるくると解いていき、怪我のない腕があらわになっていく。
 解いた包帯を俺の手首に巻きつけていった。早く青年から離れたかった俺は途中ふりほどこうとしたが止められる。睨みつけると目に入った青年の表情に後悔した。口をぎゅっと閉じ困惑と悲しみの目で訴えてくる。
 戸惑いに揺れる。青年は俺の手首を固定し終わると一息ついた。しばらくの沈黙が続く。気まずかった。
 お互い顔を背けてその場から動かず、絶え間なく聞こえる何かの遠吠えだけがあった。

「……俺は、もうこの場所には来ないと思っていた」

 青年がきょとんとした顔をしている。そういう顔をすると幼く見えた。

「俺は変な魚に食われて死んだ。だからもうこの夢を見ないと思っていた。けど俺はここにいる。アレクセイがちゃんと起きないといけないのかもしれない」

 何を言っているのかと困っている。人間らしい温かみのある所作に笑みがこぼれた。

「お前の死体をさっき見たんだ。無惨だった。死体のはずのお前がここいて、俺は怖い。なぁ、お前誰だ? 今まで俺が会ってきた人間か?」

 問いかけると青年は驚いて目を大きく開き、がくがくと首を縦に振った。

「じゃああの死体は何だ? 身体がいくつもあるのか?」

 質問に首を横に振ろうとして何か思い当たる節があったのか考え込む。やがてゆるゆると自信なく否定した。

「……一緒に見に行こう。何か分かるかもしれない」

 無我夢中で走ったが、ある程度の場所は分かるはずだ。もう一度死体を見に行くのは気乗りしないが、胸にしまっておくのに耐えられなくなっていた。共有者を欲しての言葉に、青年はおずおずと頷いた。
 角女に出くわした開けた場所を青年の背中に隠れながら通過し、そのまま通ったであろう道を逆行していく。そしてようやく死体があった場所に辿り着いた。
 そこには死体なんて無く、大量の血痕と何かを引きずった跡があるだけだった。


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