【20】



 震える身体を叱咤してふらつきながらも立ち上がる。
 身体のそこかしこが冷たく熱い。動く度に千切れた神経がこすれ、今まで味わったことのない激痛に吐き気が止まらなかった。腹の内の物を全て吐き出したい衝動に駆られ、歯を食いしばってそれを耐える。俺は足をひきずりながら歩き出した。
 ここから離れたかった。地面に縫い付けた魚の死骸を横切り、どこかへと逃げる。
 でも俺は一体どこに逃げたらいいんだろうか。傷の手当をしないと、このままでは死んでしまう。……そう考えて、俺は思わず笑ってしまった。
 何を考えているんだろうか。俺は死のうとしていたはずだ。死を望んでいたはずだ。それに、俺が死んだらもしかしたらアレクセイは元に戻るんじゃないか?
 異物である俺がいるから、アレクセイは自分の身体に戻れないんじゃないのか?

 広場にいた眠るアレクセイのことを思い出す。
 あのアレクセイは、もしかしたら本物なのかもしれない。
 俺の頭に、多重人格者の話が浮かんだ。何かの本で読んだが多重人格で苦しむ人間の大抵は、第一人格、つまりその人間の元の人格が眠りについているという。
 人間は細胞が活動を止めない限りは一生眠り続けるなんてことはできない。きっとそうだ。そうに違いないんだ。だから第一人格が眠っている間、他の人格が目を覚まし何かしらをして生を営む。
 アレクセイの身体で俺の意識がある。それは二重人格と言ってもいいんじゃないか。俺が起きている限り、アレクセイは起きないのではないか。
 俺はアレクセイの代わりだ。俺がいなくなれば、きっとアレクセイも目を覚ます。彼じゃなくてもいい、俺じゃなかったらいい。俺はもう目を覚ましたくはない。

 死のう。俺は足を止めた。
 大丈夫だ、怖くない。自分で自分の命に終わりを差し込んだ時ほど怖くはない。
 あの時は怖かった。自分の全てが終わる瞬間を目の前にして、それを自分でやらなくてはいけないあの瞬間が怖かった。
 大丈夫だ。今は自分で手を下すわけじゃない。まだ、怖くない。
 俺は膝をついて荒い呼吸を繰り返し、そして待った。
 あの銀色の魚を待って、そして自分が先ほど殺してしまったことを思い出す。

「……ははっ」

 笑えてきた。小さく掠れる声で笑い、俺は地面に身体を転がした。
 地面と傷口が接触してまた激しい痛みに苛まれる。痛い、痛い、痛い。
 このまま痛みの中失血死してしまうのか。ゆっくりと死んでいくのか。……誰か、はやく、俺を殺して欲しかった。
 赤黒い球体を視界に納めながら、俺は痛みに呻き続ける。その時、ぼそぼそと人の声が聞こえた。

「……お前は……」

 驚いて頭上を見上げると、そこには半透明の天使がいた。
 言葉の綾でもなんでもなく、背中から白い羽を生やした男が冷たい目で見下ろしていて戸惑う。金色の髪に血のように赤い目。生まれた時から日に当たっていないのかと思う程白い肌。時々うつろう視線が気味の悪い、端正な顔立ちをした男だった。

「歪んでいないのか。何故お前みたいなものがここにいる。……死にかけているのか? そうか、それは残念だ」
「あ、んた、は……」
「私の名を聞くか。……価値の無い人間に話すほど私も楽ではなくてな。あれが、ここに来る時間が惜しい……早く……」

 時々目が小刻みに揺れる天使は、そのままぼそぼそと何事かを呟いて消えてしまった。呆然と、天使がいた場所を見つめる。そして歯を食いしばった。
 この世界が嫌いだ。夢から覚めた世界も嫌いだ。俺はそれを強く確信する。意味の分からない出来事が説明無しに俺を好き勝手巻き込んで、それが憎々しい。
 端からどんどんと冷たくなっていく身体が恨めしい。理不尽な衝動が俺の中で荒れ狂い、それを何回も何回も否定する。違う、俺は死にたいんだ。
 死んで、アレクセイに肉体を返そう。俺という人格が死んだら、アレクセイは目覚めなければならない。広場で眠る彼を思いつつ、遠くから聞こえてくる甲高い鳴き声に俺は目を閉じた。


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