【19】



 驚いてそちらを見た瞬間、何かが俺の顔面に飛び込んできた。
 それが何か理解する間もなく、俺の顔半分から燃えるような痛みが襲ってきて、俺は反射的に顔に張り付いている何かを払った。
 思いっきり払った時、引っ張られるように顔の半分からぶちぶちっという音と共に肉が剥がれる。いきなり襲ってきた強烈な痛みに、俺は地面に倒れてのた打ち回った。

「あ゛、あぁああ゛あぁっ!?」

 顔半分を手で覆う。指の間から血が流れてきた。生温かい。手が顔に触れて、それがさらに痛みを誘発する。な、んだこれ。何が起こった?
 地面を這いながら、俺は払いのけた物が落ちたであろう場所を見る。
 それが落ちた地面には、魚がいた。触れれば冷たい、叩けば硬質的な音を返しそうな、そんな銀色の鱗を持った無骨な魚だ。魚は重力を無視するようにふわりと浮かび上がる。口元には血がべったりとついていた。くちゃくちゃと何かを咀嚼している。その咀嚼している何かが俺の肉であることを理解するのに、そう時間は要らなかった。
 宙で停止する魚を凝視しながら、俺は暴れる心臓と荒い呼吸に急かされた。歯の根が噛み合わず、ガチガチと音を立てる。身体も自分の意思に反して小刻みに震え、俺はただただ魚を凝視していた。

 一体、なんだ? あの魚は? なんで俺、あいつ、俺の肉を? 
 疑問と困惑が頭の中を占める。咀嚼される度に口の端から落ちる赤色に、俺は怖くなった。俺は、あの魚に食われるのだろうか。それは嫌だ。そんな死に方は、嫌だ!
 魚が咀嚼を終え、俺に向かって飛び掛ってくる。俺は悲鳴を上げて魚を払った。が、払った腕に噛み付かれて激痛が襲う。骨すらも噛み砕かんばかりに込められた力に、絶叫しながら壁に腕ごと魚を叩き付けた。
 一度、二度、三度、何度も何度も叩きつけてようやく肉ごと魚が離れる。
 骨の上を鋭い歯が滑り、肉が剥ぎ取られ、筆舌しがたい激痛に意識を飛ばしかけた。
 魚が離れてまた咀嚼を始めている隙に、震える身体を叱咤して立ち上がる。言うことを聞かない足にイラつきながら、俺は路地裏から逃げ出した。

 肉を剥がされた腕で、食われた顔半分を覆いながら俺は走った。
 走る、という言葉にふさわしくない千鳥足のような速さで俺は逃げる。
 足が恐怖に笑っている。もっと早く走らないと。そうしないとあの魚がまた。
 痛みと恐怖に泣き喚きたくなる。そんな俺の後ろで、甲高い鳴き声が聞こえた。

「ひっ、く、来るな、来るな、くる、っ」

 路地裏が終わりを告げる。開けた場所に出た俺は、その形容しがたいおぞましい光景に思わず足を止めてしまった。
 その広場には赤黒い球体がいくつもあった。心臓を思わせる赤黒い球体には鋭い棘が生え、他者を拒んでいるようにも思える。その周りを半透明の液体に包まれ、俺はそれが羊水なのではないかと、何故かそう思った。

「あ……?」

 地面に埋没する赤黒い球体。それが何個も広場にあって、俺は呆然とそれらを眺めていた。後ろから聞こえる甲高い声に現実に引き戻され、足をひきずりながら前へと進んだ。
 赤黒い球体を横切ると、こぽっと水の音が聞こえたような気がした。
 が、それは気のせいだ。そうだそれはきっと気のせいだ。
 甲高い鳴き声が俺のすぐ後ろにまで迫ってきて、俺は死を覚悟した。
 その時、赤黒い球体から何かが吐き出された。
 それは剣だった。青年が持っていた剣と同じ作りの無骨な剣。
 それが数メートル程先の地面に落ち、咄嗟にその剣に向かって最後の力を振り絞って走り出した。
 剣の前まで辿り着き、それを拾う。だが間に合わなかった。肩に鋭い歯が突き刺さり、痛みに狂ったように叫ぶ。剣を持ったまま痛みの原因を振り払おうと転がり、肩に張り付いたままだったそれが肉を離さずに、地面と俺の身体の下敷きになる。
 それでも離さない。半狂乱で地面を転がり続け、肩の肉を代償にようやくそいつが離れた。

「あ、あっ、あ、あぁ、あ゛、ぎぃぅ」

 俺から流れた血が、地面に血溜まりを作る。
 抉られた肩の方の腕で剣を必死に握り締め、俺は地面に落ちた魚を見た。
 魚はまたふわりと宙に浮き、咀嚼を始める。痛みに頭の中を支配されながら、俺はそれがチャンスだと思った。
 剣を振り上げる。肩の痛みが俺に苦痛を主張する。構っていられない。俺は魚に向かって剣を振り下ろした。

 ガキンッという金属音がした。見た目通りに金属で覆われているらしい魚は、怒ったように声を上げる。俺は無我夢中で魚に斬りかかった。
 途中から肉を剥がされた腕でも剣を握り、力を込めて魚に振り下ろす。剣に慣れていないため何回か外す。襲い掛かってこようとする魚を下から斬り上げると、腹の部分は鱗が薄かったのか確かな手ごたえがあった。
 一際甲高い鳴き声を上げ地面に落ちた魚に剣を突き下ろす。
 金属製の鱗にはじかれながらも、何度も何度も突き下ろし、鱗を貫通して生身に刺さる生々しい感触に笑った。

「死ねっ、死ねっ、死ねぇぇっ!!」

 何回も魚と地面を縫い付けて、魚から悲鳴が聞こえなくなるまで繰り返す。
 そしてやっとのことで魚の死を確認した俺は、荒い息を吐きながら、その場に崩れ落ちた。オオーン、オオーンと何かの鳴き声が聞こえる。今までただの環境音に聞こえていたそれが、俺を食い殺す化け物の遠吠えのように思えた。


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