10
人とは、流れる生き物だ。
稀にその流れに逆らう人間もいるが、そういう人間はおかしいのだ。
頭のネジがどこか歪んでいる。抜けている。流れに身を任せる方が楽なのに、反抗的に、考え無しに逆行する。
流れに逆らい成功した者を天才というんだろう。
流れに身を任せる者を凡人というんだろう。
俺は、誰からどう見ても凡人の部類に属する人間だ。天才にはなれない。
考え無しにもなれない。俺は臆病だから。良い言い方をすれば慎重なんだ。でも実際は考えることを放棄した、めんどくさがり屋なんだ。
病人服を脱ぎ、用意された衣装を身に纏っていく。
そう、めんどくさい。めんどくさい。
全部全部めんどくさい。だから俺は死を選んだ。
怖がることがめんどくさかったのだ。
頭に鈍く、鋭い痛みが走る。顔の筋肉を動かすのもめんどくさい。
この痛みは寝不足から来るものだ。生前、徹夜した時などによくなっていたから分かる。
眠るのが怖くてずっと起きていた俺が、睡魔に負けて寝てしまった後。あれから三日三晩眠っていたらしいこの体は、まだ睡眠を欲している。
俺としては全然寝た気がしない。夢を、赤い夢を見るからだ。睡眠は現実から逃げるための、現実から目を背けるための、死以外の逃避方法だ。
死と、睡眠と、狂うこと。これが、現実からの逃避方法。
俺は二つ体験したわけだ。
着方がよくわからなかった部分は適当に、こうだろうなと思う着方で纏っていく。
サイドテーブルに立てかけられている剣を横目に、俺はぼんやりと考える。
あとは狂うだけか。
けどこれもそう遠くないように感じる。
睡眠という現実逃避の方法を奪われた俺は、どうやっても現実から逃げることができない。
死はもう選べない。死をもう一度選ぶのが怖いというのもある。
あるが、一番の理由は、この体が俺の体じゃないということだ。
俺の意思で動くこの体は、だけど俺の体じゃない。他人の体に、俺が一時的に入っているだけだ。他人のものを無碍に扱うのは、さすがにできない。
それに俺は、アレクセイのことを少なからず尊敬していた。
服を着終えた。確認するように伸びをする。歩いてみる。動いてみる。着方を間違えているわけではないようだ。いきなり脱げることはしなかった。
サイドテーブルに置かれた水差しを手に取り、コップに水を注ぐ。
こぽこぽこぽ。
ぼーっとしていたせいか、水がコップの縁を超えてこぼれてしまった。
水差しを置き、近くに置いてあった手ぬぐいでテーブルを拭く。
生前、小説を、読んでいた。
レイヴン。あの橙色の男、シュヴァーンのことが書かれた、外伝小説。
その小説にはアレクセイも出ていた。
ちょこちょこと出てくる程度ではあったが、彼はその少しの登場でも分かるほど、徐々に狂っていった。
彼は、元から狂人であったわけではない。
理想を、国家のことを、考え行動して、彼は真っ直ぐに折れ曲がった。
信念という一本の芯は折れ曲がり、真っ直ぐに伸びていった。
そうして行き着く先は、死。
信念を、理想を、期待を、野望を無残に砕かれて、無様に死ぬのだ。
死。そう、アレクセイは死ぬのだ。
死ぬはずだったのだ。
けどどういうわけか生き残り、そして俺が彼の体に入った。
彼も不本意だろう。自分の体に、自分とは真逆の臆病者がいるのだから。
俺も不本意だ。許してくれ。
コップを手に取る。縁いっぱいに入れられた水は、俺の手の震えによって再度こぼれた。自分では抑えられない手の震えに、まるでアルコール中毒者のようだと薄く笑った。
でもまぁ、この手の震えは寝不足が原因なので止めることはできないが、できるだけ被害を少なくさせることはできる。
それは、何かに触れている時間を短くしたらいい、というものだ。
俺はコップをすばやく自分の口に持っていき、飲んだ。そしてすぐにテーブルに置く。
水はこぼれていない。大丈夫だ。大丈夫。
アレクセイはすごいと思う。
彼はどんな苦難が訪れようとも、心を折ることをしなかった。
俺だったら絶対心を折るだろうと思える場面も、彼は膝を折って嘆きながらも、また立ち上がって進んだ。
すごいことだ。
一度折った膝を、また立たせるだなんて。
心を折れさせないだなんて。
俺には絶対できない。
その人間性に、憧れた。
けど俺はアレクセイのようには絶対なれないと、分かっていた。
だから憧れは尊敬に取って代わった。
俺はアレクセイを尊敬している。
尊敬しているからこそ、この体を粗末に扱うことはできない。
死を選ぶだなんてもってのほか。俺の逃げ道は、無い。
剣を見る。この体の身長に合わせて作られた剣だ。長い。
それを手に取る。無造作に鞘から剣を抜き、その刀身を見ることなく適当に振る。
重い。手からすっぽ抜けそうだ。
自分の眼前に刀身を持ってくる。一度も使われたことがないのか、その刀身は綺麗だった。アレクセイの顔が映っている。その顔は無感動だった。
物を見る目が、俺を見つめている。それがなんだから面白くて薄く笑ったら、アレクセイも笑った。俺は刀身を鞘に納めた。
そう、逃げ道なんて、無い。
コンコンと部屋にノックの音が響いた。
部屋にある唯一の扉に視線を向け、俺はその扉が開くのを待った。
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