【9】
男がようやく動き出す。
首を傾げて少しの間何かを考える素振りをした後、一つ頷いて俺の方に手を伸ばしてきた。
男の手は俺の腕を掴み、軽く引っ張られる。
いきなりのことに驚いた俺は身を引いた。
そんな俺に男は眉をハの字に歪める。何かを伝えたいのか口を何回か動かし、顔を横に向けた。
視線は顔が向けられた方に向かっており、釣られて俺もそちらを見る。
が、俺の立っている場所は建物と建物に挟まれた路地裏で、男が何を見ているのか壁にさえぎられて見えなかった。
もう一度軽く引っ張られる。
男に視線を戻す。こちらを見つめる目とかちあった。
俺はしばらく悩んだ。悩んで、考えて、はぁとため息を吐く。
「……分かりました」
そう言って男の方に一歩足を踏み出す。
良かった、という心の声が聞こえそうな顔で男は微笑んだ。
男に手を引かれて路地裏から抜け出し、広い場所に出た。
路地裏から見た風景と変わりない。軽く辺りを見回して何もいないことに安堵した。
男が歩き出したのでついていく。
数分歩いて、それが視界に入ってきた時、俺は大げさなほど体を跳ねさせた。
そこには椅子に座ってうつろな目を宙にさまよわせている、頭から角らしきものを生やした女性がいたのだ。
この前見た夢の中にいた異形だ。
俺はその場に留まる。俺が立ち止まったことによって腕を引っ張っていた男も立ち止まった。
男が振り返って不思議そうな顔をする。
体が小刻みに震える。わななく唇をなんとか開いて、声を出した。
「あ、あの、すみません。俺、その人に近づきたくないです」
「?」
「だって、怖い、です。ちょっと、やめてください! 引っ張らないで!」
「?」
「嫌だ! やめてくれ!」
「? ……? …………?」
男はぐいぐいと俺の腕を引っ張る。
不思議そうに、困ったように顔を歪めて引っ張る男に、俺は恐怖を抱いた。
この男が何をしようとしているのか分からない。相手の目的が分からないほど怖いものはなかった。
嫌だ嫌だと声を荒げ、ようやく男が俺の腕を引っ張るのを止めた。
代わりに空いた手で自分の顔を指差し、口を動かす。その後にその指を枝のような角を生やした女性に向けた。何回か同じ動作を繰り返した後、首を傾げた。
何を伝えたいのか分からない。俺は眉根を寄せて黙り込む。
二人揃ってその場で立ち尽くし、やがて男は困った顔をしたまま俺の腕を離した。
突然解放されたことに疑問に思いつつ顔を上げる。
男は俺に背を向けて歩き出していた。女性の方へと向かっている。
その背中を眺めていると視界の隅で何かが通り過ぎた。
すぐにそちらに目を向けると、……猫が、…………路地裏に、走って……。
ふらり、と足を踏み出す。
俺は猫の後を追いかけた。
路地裏に入るとすでに猫の姿はどこにもなかったが、一本道であるその道で真っ直ぐ以外の進行方向があるはずもなく、俺は駆け出す。
小走りから徐々にスピードを上げていって、最後には全速力に近い速さで走った。
長い長い路地裏を走って、ようやく終わりが見えてくる。それを知った俺はとうとう全速力で走り出し、そして辿り着いたのは。
建物群に丸く縁取られるように囲まれた、大きな広場だった。
俺は立ち止まる。
その広場は色んなところから通じているらしく、俺が出てきた路地裏と似たような道が何本も全方位に伸びていた。
ざっと見渡す限り広場にはほとんど何もない。
あるのは、中央に置かれた木製の長ベンチとその背で伸びる一本の細い電柱だけだった。
電柱と電柱を繋ぐケーブルはないが、その細い電柱の天辺近くに乱雑に取り付けられたスピーカーがガリガリとノイズ音を発している。
俺は荒い呼吸を吐きながら目だけをぎょろぎょろ動かし、そしてそれを見つける。
木製のベンチの上。そこには人間が座っていた。座っている人物に見覚えがあった俺は驚愕に目を見開く。
赤を基調とした服の上に鈍色の甲冑。銀色の髪の毛。精悍な顔付きをした男の横顔。眠っているのか、その目は閉じられているが、その下はきっと赤い色をしている。
「……は?」
間抜けな声がもれた。
木製のベンチに座っているのは、俺の記憶に間違いなければそれは――アレクセイ・ディノイアだった。
意味が分からずに、俺は彼に近づく。目を閉じて顔を俯けるアレクセイは、本当に眠っているのか規則的な息を吐いて胸を上下させていた。
その顔を覗き込む。顔色は普通だ。血の通った生気のある色。色んな角度から彼を覗き込み、あぁ、そうかと俺は息を吐いた。
そうか。わかったぞ。
夢だったんだな。そうか。良かった。
そうだよな。自らの命を絶った俺がいきなりアレクセイの体で目を覚ますだなんて、そんな馬鹿な話は無いよな。
彼はここにいる。このベンチの上で眠っている。
俺も、俺の体で今動いているし、そうか、良かった。
……あれ? でもここは夢の中だよな?
空を見上げる。視界には電柱に取り付けられたスピーカーと、その向こうの赤い空が映った。
こんな色の空を、俺は見たことがない。
終末を彷彿させる空模様。目を横に向ける。真ん中に置かれたベンチを中心に、円を描くように建てられたボロボロの建物達。退廃的な世界。
これが夢じゃなかったら、地獄じゃないか。
目をアレクセイに戻す。
ごぽり、と音が聞こえた。
ぼたぼたと赤い色が散る。落ちていく。
目を見開いた。その音は、色はアレクセイの口から発生したものだ。
ぼたぼた。ベンチの背にだらりと体を投げ出している男の膝に、赤が落ちていく。
あまりの出来事に、一歩、後ろに退がる。
ごぽっ。もう一度音がしてさらに赤が溢れた。
アレクセイの膝が、どんどんと染まっていく。
鮮やかな赤。心臓から出たての、酸素を多く含んだ赤。鮮血。
嘘のように鮮やかな色。一歩、後ろに退がる。
ガリガリとスピーカーから発せられる音が増したような気がした。
何かの冗談のように吐き出され続ける赤。吐き出すために断続的に動く喉元。
わからない。意味が、わからない。足が震える。一歩、後ろに退がる。
――その時、足に何か柔らかいものが当たった。
瞬時に何かが当たった足を見る。
……今にも零れ落ちそうな大きな目が、俺を見上げていた。
それを見て、俺の足に擦り寄るそれを見て、喉から、腹から搾り出すような音が、俺の口から飛び出していった。
がさがさとビニール袋が音を立てる。オオーン、オオーン。何かの遠吠えが重なる。長く長く叫ぶ俺の声をものともせずにその音たちは俺の耳に存在を主張する。
どれくらいか叫んだ後、俺の視界は暗転した。
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