【8】
鉄錆の匂いがして顔を上げた。
勢いよく噴出したのであろう、広範囲に広がった、もうすでに乾いている血飛沫をべったり貼り付けた建物と建物の間に、俺はいた。
赤い空。剥き出しの土。遠くで響く何かの声に、俺はまた夢の中に来てしまったことを理解し身震いした。
きょろきょろと辺りを見回す。
辺りを確認して、俺が立っている場所がこの前見た夢の時と同じ場所だということに気がついた。
ここは路地裏か。ならこの路地裏を抜けたらまたあの意味の分からない物体達を見ることになるのか。
……それは、嫌だ。
俺はこの前走った道とは逆方向の道に進んだ。
じゃり、じゃりと土を踏む感触。それはとてもリアルに足元から上に俺の体を伝っていった。
そういえば、寒さも感じるような気がする。
歩きながら、俺はなんとはなしに建物に向かって手を這わした。
ざらざらとした感触。コンクリート特有のあのざらついた手触りに、俺は壁に目を向けた。
視界には見慣れた俺の手と乾いた血の飛んだ壁が映っている。
血の付いた部分を触っていたことに気持ち悪く思い、壁から手を離して俺は歩き続けた。
じゃり、じゃり。長く続く路地裏。やや下を見ていた目を、前に向ける。
俺を挟み込んでいる両側の壁は、あと少し進めばなくなるようだ。広い場所に出られる。
けど、広い場所に出て、またあの異形共がいたら。
……怖い。
足を止めた。
視界に映る両側の壁の無くなった先、開けた空間を見る。
俺の立っている場所からは何も見えない。ぼろぼろになった建物が陰鬱な雰囲気で建っているだけだ。それを覆う赤い空には煙のようにぼやけた雲が流れている。
オオーン、オオーン。何かの遠吠えだけが耳に届く。
これ以上進みたくないと思い、視線を落とした。
しばらくの間その場に立ち尽くし、そして俺はあることに気が付く。
慌てて自分の手のひらを見た。
そこには見慣れた手があった。見慣れた手。自分の手。
体を見下ろすと、自分の体があった。
長年見続けた自分の体。俺が自分の命を絶つまで、ずっと俺の体として動いていたそれ。
何がなにやらわからなかった。
自分の前に両手をかざして混乱していると、前方から土の踏む音が聞こえて、俺は瞬時にそちらに目を向ける。
路地裏の出口付近に男が立っていた。
褪せた紺色のコートを羽織り、なにやら大きな物体を背負った、童顔気味の男。
男は軽く目を見開いて俺を見ていた。
俺はというと、異形でもなくいびつに歪んでもいない、いたって普通の人間に出会えたことに、無意識に詰めていた息を吐いた。
止めていた足を動かして、男の傍に寄る。
近づく俺に、男はさらに目を大きくさせた。
目の前まで来て、俺と身長がほぼ変わらない男の目を見て話しかけた。
「あ、あのすみません。ここはどこですか?」
問いに答えは返ってこなかった。
男はじぃっと俺を見続けた。酷く驚いているといった顔で、俺の体を上から下まで何度も確認するように眺めている。
男の視線に居心地悪く思った俺は少し身を引いた。
すると、男がハッとした顔をして頭を下げた。
……?
謝っている、のか?
すぐに頭を上げた男は、今度は口をぱくぱくとさせる。
その口から、音にならない空気の流れだけが吐き出されて、俺はようやくこの男が唖者なんだと思い至った。
重ねるように、俺は問うた。
「声が……でないんですか?」
「ぁ……ぅぅぅ、…………ぇ…………」
「む、無理しないでください」
大量に吐き出される空気と共に口からもれる、とても人の声だとは思えない何かがぶつかりあうような音に慌てた俺は、必死に声を出そうとする男を止めた。
男は眉を下げてもう一度俺に向かって頭を下げる。
「謝らなくていいです。俺の方が謝らなくちゃ……。すみません」
「…………」
俺が頭を下げると、男はまたしても驚いたといった顔で目を見開いた。
一体何に驚いているのか見当もつかない俺は、困った顔をして男を見返す。
しばらくの間お互い見詰め合って、俺はふと思いついたことを聞いてみようと口を開いた。が、先ほどのやりとりを思い出して声を出す寸前で止め、ゆっくりと口を閉じる。
オオーン、オオーン。
何かの遠吠え。何回も聞いているとそれは風の通り抜けるような音にも聞こえてくる。
俺と男の間にはその音以外何か響くことはなく、俺はこれからどうしたものかと首を捻った。
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