nameless room(5/5)

「くらさめさん、くらさめさん」
「なんだ?」

眠る前だった。
さすがに一緒のベッドに入る訳にはいかなくて、彼女を部屋で預かることになってからもう一つ部屋に簡易ベッドを置いているのだが。そうではないいつもクラサメが使っていたベッドの方で横になっていたフィアは不意に呼びかけた。

「わたし、記憶元に戻るのかな?」
「戻るさ、きっと」

そう返すとフィアは少しだけ複雑そうな顔でクラサメを見上げた。

「でも、戻ったら名前思い出しちゃうかな」
「嫌なのか?」

自分の名前が思い出せることは嬉しいことではないのだろうか。普通なら喜ぶべきことだろう。クラサメの方も不思議そうに問い返すと。

「だって、せっかくくらさめさんが付けてくれた名前があるのに、勿体ない」

クラサメは無意識に瞳を瞬かせた。
けれどすぐに、柔らかい表情でフィアの頭をそっと撫でた。

「そういえばフィア、おまえ私の名前を“くらさめさん”だと勘違いしていないか?」
「え?違うんですか?」

布団を首元まで上げて、きょとんとフィアは目を丸くする。
クラサメの予想通り、彼女は彼の名を“くらさめさん”だと思っていたらしい。

「クラサメ、だ」

そういえばフィアにまともに自分の名前は名乗っていなかった。
たまたまやってきた朱雀兵の呼びかけから、彼女が彼の名を理解したからだ。

「さんは?」
「それは接尾詞だ」
「せつび……?」

苦笑いしてクラサメはまたフィアの頭をぽんぽんと叩いた。
嬉しいのか聞き足りないのか、彼女はどちらともが混ざった表情でクラサメを見上げている。

「クラサメさん」
「クラサメでいいと言ってるだろう?」

呼び捨てで構わないと訴えるが変わらないフィアの呼び方。これはもう「くらさめさん」で慣れてしまっていたため仕方がないのだ。
クラサメはまた1つ苦笑いをマスクの下で浮かべフィアの頭をぽんと叩いた。

「おやすみ、フィア」
「おやすみなさい、クラサメさん」




*




「っ……や、だ!」

か細い声が耳につき、クラサメは微睡みから浮上する。
部屋の傍らを見るとトンベリは眠っていた。不自然に思い体を起こすと。

「……っう」
「フィア?」

魘されているような声はフィアの物だった。彼女の眠っているベッドサイドに近づく。覗き込むとフィアは眉間に皺を寄せて苦しそうに息をしていた。
ぎゅっとシーツを握りしめている指先は色が白くなる程に力が込められていて。

「フィア!フィア!」

呼び掛けて彼女の体を軽く揺する。けれどフィアは目覚めずに、苦しそうにもがき目から涙を流すだけ。

「フィア……!」
「っ……く、らさめ、さん…?」

何度か呼び掛けて体を揺することを繰り返すと呪縛から解き放たれたようにフィアが目を開いた。その瞳は酷く不安そうに揺らいでいる。

「大丈夫か?」

極力優しい声音で問い掛けると、フィアはがばっとクラサメに抱き付いた。
咄嗟のことに驚きはしたが彼はそんなフィアを黙って受け止める。意識すると彼女の肩はカタカタと小刻みに震えていてとても小さかった。

「クラサメ、さん……っ」

発せられた声も弱々しくて、肩と同様に震えている。
何か嫌な夢でも見たのか。それとも記憶に関することだったのか。クラサメにはわからない。

「ひとり、やだっ」

小さなフィアの声を聞き逃さないよう、しっかりと耳を傾ける。
胸に顔を埋められていて、少し聞き取りづらい声。くぐもった声をなんとか聞こうと首を傾けた。

「ひとり、に……しないで」

ぎゅっと服を握りしめられて、その指もやはり震えていて。小さな小さな細い肩をクラサメはぎゅっと抱き返した。あやすようにそっと背中をさすってやりながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「そばに……っ」
「大丈夫だ、傍にいる」

抱き付く力が強くなる。同じくらいの強さで抱き返すけれど、彼女が壊れてしまわないか少し心配にもなった。

「ひとりに、しない……?」
「ああ。フィアの……」

少し考えて、やめようかと思ったが構わずクラサメは続けた。

「フィアの傍にいる。おまえは、1人じゃない」

不安そうに揺れる黒曜石の瞳がクラサメを見上げた。
安心させようと頬を撫でるとぽろぽろと透明な雫がこぼれ落ちてきて。だんだんとそれは止まらなくなり、止めどなく溢れてくる。
ぽんぽんと背中を叩きながら彼女の瞳をしっかり見つめて、クラサメは濡れた目尻に口づけた。

「!」
驚いて フィアの瞳が大きく見開かれる。同時に。

「止まったか?」
「あ……」

止まることを知らなかった涙は一瞬で引いて。クラサメは薄く笑った。
それからすうっと指の背で頬を撫でられて、ぎゅっと更に体を抱き寄せられて。

「フィアは1人じゃない」

薄い唇が、フィアの唇の端に触れた。
ふわり、と柔らかく。

「1人じゃ、ない……?」
「ああ」

額に、瞼に、唇の端に。
羽の様に落ちてくるクラサメの口付け。
驚いていたフィアもいつしかそれがとても彼女を落ち着かせるおまじないのようになっていて。

「クラサメさん、もっと、それして?」

ほんの少しだけ目を丸くしたクラサメだったが、すぐに優しい表情を浮かべるとフィアの唇へ自分のそこを当てた。
今度はしっかりと唇同士が触れ合って。



to be continued.
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