nameless room(3/5)

「なまえ、って」
「クラサメさん」

女性の小さな声が掻き消されて、処置室の扉が開き1人の朱雀兵が現れた。
名前を呼ばれたクラサメは扉の方へ体ごと視線を投げた。

「なんだ?」
「女の子目覚……あ、目覚ました見たいですね。よかったです」

先程彼女を連れてきた時に一緒についてきた兵士。目覚めない彼女を心配して彼もまた様子を見に来たのだろう。適当に2、3会話をして兵士は去っていった。
そんな光景を、物珍しそうに女性は黙って見つめていた。

「悪いな、話の」
「くらさめさん?」

話の続きを聞かせてくれと、彼女に振り返ったクラサメは少しだけ驚いた。
一瞬考えて、たった今去っていった兵士が最初に自分の名前を呼んだことを思い出してゆっくり頷いた。

「先に私から名乗るべきだったな」
「あなた、くらさめさん?」

「ああ」と返すと少しだけ彼女の表情が和らいだ。何が彼女を安堵させたのかはわからなかったけれど。

「なまえってみんな持ってるのだよね。わたし、なまえ思い出せない。気がついたらあそこにいて、みんな眠ってた」

まともに彼女の声を聞いたのは恐らくこれが初めてだろう。意外とはっきりとしていて、凛とした声音が簡素な空間に広がる。やはり、記憶喪失か何かになってしまっているのだろう。

「もしかして、名前の意味もよくわかっていないんじゃないのか?」
「うん。くらさめさんがなまえって言うから、ちょっと考えたけど。ちゃんとは思い出せない」

決して辿々しい訳ではなかったけれど、少し迷いのある話し方。
その後、クラサメに怯えずになんとか会話できるようになった女性はゆっくりと自分の事を語り出した。どうやら彼女は自分の名前や単語だったり名詞であったり、不特定に記憶が無いらしい。「なまえ」が何なのか解らなかったり「朱雀」がなんなのか覚えていなかったり。

「くらさめさん、わたしどうしたらいい?」

日常会話そのものは出来るし、覚えていなくても体が憶えていて出来ることもあるようだったが詳しい素性や何故あの場にいたのか、自分が誰なのかは全く思い出せないよう。ここまで連れてきてしまった為、そんな彼女をまた魔導院の外に放り出す訳にもいかない。

「何も覚えていないみたいだからな。ひとまずここで面倒を見れないか院長に頼んでみてやる。何か他に適切な場所があれば別だが」

言ってから彼女のぽかんとした視線に気付いて、クラサメは一瞬黙り込んだ。

「いや、その。ここにいて、いいんだ」

出来るだけ簡単にそう言ってみせるとふわり、と彼女の頬が綻んだ。
大きな瞳が嬉しそうに細められて強ばっていた口角も綺麗に弧を張った。
そんな彼女の表情に、クラサメもほっと胸が温かくなった。

「ああそれと、思い出すまで何か別の名前を付けた方がいいな」
「わたしのなまえ?」

彼女の目がそわそわと輝いた。
無意識にクラサメもマスクの下で表情を和らげる。会話をするのにも生活をするのにも、人としての名前は大切だ。回りも呼びかけられないのだし「おまえ」や「あんた」では彼女が不憫すぎる。
しかし生憎と、親になった経験の無いクラサメは人の名前を考えるなんてしたことが無い訳で。動物も飼ったことはないし、連れているトンベリも「トンベリ」であるのだし。困っているクラサメに、爛々とした無垢な視線が突き刺さる。プレッシャー。

「ええと……」
「うん!」

いくら博識な彼といえども名前なんてすぐに思いつくものではなかった。
顎に手を当てたままじっと考え込む彼にだんだん彼女の肩が下がってくる。そんな彼女の行動に痛む良心。泣き出してしまうのではないか、そう思った時。

「フィア」

ふっと、自然に口から出てきた言葉。

「フィア?」

そっと彼女が繰り返す。
クラサメは自分を見つめている大きな瞳と視線を交わらせた。

「ダメか?」
「ううん!ダメじゃない。フィア……」

ゆっくりと噛み締めるように、フィアは自分の名前を繰り返した。
何もなくなった記憶の中で、新しく刻み込まれた彼女の名前。

「くらさめさん、ありがとう!」

彼から貰った、最初の贈り物だった。

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