この光景を表す言葉ならばぽつぽつと幾つかは思い浮かんだ。けれどいくら思考を巡らせても、それ以上に行き着かず。
結局、振り出しに戻ってまた考える。
惨劇、無惨、凄絶、熾烈、激闘…
思い出せるのは僅かな言葉と自分が命ある生き物であると言う事だけで、一番大切な何かだけ欠けてしまっているみたいで。それが何だったかさえ解らなくて。
多分わたしは、人を個と区別する為の識別番号のようなものが足りない。
いや、足りないんじゃなくてきっと。
「これは……なに?」
![](http://static.nanos.jp/upload/r/raumx/mtr/0/0/20120413173152.jpg)
彼はその光景に自分の目を疑った。
思わず足を止めたけれど緊張の糸を切らす訳にはいかず氷剣の柄を握り直した。周囲に転がる惨たらしい死体の山と、噎せ返るような生臭い匂い。心なしか空気が湿っているように感じる。
「あ……」
ざっと、クラサメは足を止めた。
彼の耳に入った絞り出すような声はあまりにか細くて、今にも潰れてしまいそうだったけれど。状況が状況だ。見た目で判断する訳にはいかなかった。
「名は?」
いつでも受け身は取れるよう、剣を少しだけ持ち上げた。到底、少しばかり反応が遅れたとしても負ける気はしなかったが。念のため。戦場に身を置く者ならば皆が皆、心得ていることの一つだ。
問いかける声は思ったより冷静に、いつものクラサメらしく響いた。
「名……?」
クラサメが問い掛けた人物――死体の群れの中でただ1人真っ白な装束に身を包み、座り込む少女はそう鸚鵡返しに首を傾けた。怪訝に思った彼は眉間のシワを深める。
「おまえの、名前だ」
そう言って一歩近づくと少女はびくりと肩を震わせてクラサメを見上げた。大きな闇色の黒曜石が、彼を閉じこめた。
そう、彼女は自分の名前がわからなかった。
「なまえ?」
不思議そうにまたクラサメの言葉を繰り返し、先程と同じ仕草をする少女。
座り込んでいる彼女はその大きな瞳でクラサメを真っ直ぐに見つめる。
「……まさか」
あまりに無垢なその眼差しに、彼の脳裏に一つの考えが浮かぶ。
真っ青に晴れ渡った吸い込まれそうな青空の下、ごろごろと転がる屍とキツイ鉄の匂い。不釣り合いな彼女のその姿。真っ白な服。
「記憶が、無いのか?」
「きおく?」
彼女はそう返すとゆっくりと自分の膝に視線を落とす。じっと自分の両手を確かめるように確認し、握ったり開いたりを繰り返す。暫くして軽く辺りを見回してクラサメを見つめ、また自分の膝に視線を戻した。瞬間――
「っ――!!」
突然頭を押さえ込み蹲る少女にクラサメは思わず駆け寄った。激痛、そう表現するのが相応しいだろうか。
かと思うと、
「な、まえ」
少女の腕がだらんと地面に付き、駆け寄ったクラサメの胸へ頭がふらりと沈む。
突然意識を失った彼女に困惑しつつもクラサメは少女を抱き止め呟いた。
「……やむを得ない、か」
こんな惨劇の跡地に彼女を置いていくわけにはいかない。素性がわからないにしろここで見なかった振りをするのは人として気が引けてしまうのだ。
クラサメはぐったりとした少女を抱き上げ、その場を後にした。
*
「っ!」
はっとして瞼を開いた。
少女、と呼ぶには少しばかり大人びた風貌の。言い表すならば若い女性。
彼女は瞼をぱちぱちと瞬かせた。少し離れた場所で見張っていたクラサメは彼女が目覚めたのに気付くとゆっくりとベッドサイドに歩む。
「ここ、は?」
不安そうに大きな黒曜石が揺れた。
彼女の視界には今、先程まで見ていたであろう壮大な青空とそれと全く反する異様な死体の山々ではなくて、ベッドと椅子しかない簡素な部屋の景色が映っているだろう。それと、そこに立つクラサメの姿。
「魔導院ペリシティリウム朱雀の処置室だ」
簡潔に、クラサメはそう言ったのだが。女性はかくんと首を傾げた。
寡黙な印象を与えるクラサメの態度に彼女は自分の服の裾を握る。
それに気付いた彼は極力、声のトーンを下げすぎないようにと気を遣った。
「単刀直入に聞くが、……自分の名前は覚えていないのか?」
出来るだけ、柔らかな声で言ったつもりだったが女性は肩をびくりと震わせた。
ずりずりとそう大きくはないベッドの上で後ずさる。内心クラサメは溜息を吐いた。その溜息に更に彼女が怯えるとも知らずに。
(話にならないな……)
とはいえ、彼女を此処まで運んできたのは自分自身。生真面目な性格故、責任を放棄するなんて事は出来ないし、それは彼の中でも有り得ない。
どうしようかと視線を自分の足下に落とした時だった。
「なまえ……」
「?」
ぽつりと彼女が呟いた。