▼ Tragedy(2/3)


「クラサメさん、わたしです」

ナマエの両手は塞がっていた為、出来るだけ押さえめの声で扉の向こうの人物へと呼び掛ける。するとすぐに扉は開かれ部屋の主、クラサメが顔を覗かせた。
彼は何かを言うわけでもなく自然な動作で彼女を部屋の中に招き入れる。勿論、それは相手がナマエだからだ。
ナマエもそれが当たり前のように彼の部屋に入り、床をぽてぽてと歩いてきたトンベリに微笑んでみせた。

「どうしたんだ?」
「どうもしないです。ダメでした?」

悪戯っぽく笑って見せると「やれやれ」とでも言いたげな表情でクラサメも僅かに微笑んだ。と、言っても彼の顔は半分隠れているのでしっかりとした表情は見えないが。

「それ、置いたらどうだ?」

それと言われてクラサメはナマエの手元を指差した。そう、彼女がこの部屋に来た時に扉をノック出来なかったのはこれの所為。
言われて気付いたナマエはそうだと呟いて片方をクラサメに見えるよう軽く持ち上げた。

「忘れてました。クラサメさんもどうぞ」

コトッとソファーの前のローテーブルの上に2人分のカップを置いた。まだ淹れたばかりでかなり暖かい。ゆらゆらと白みがかった湯気が立ち上がっていた。
ふとトンベリに目を向けると彼は眠いのだろう、目の辺りをこしこしと擦っている。すかさずそれを察知するとクラサメは彼を抱き上げて慣れた手付きでトンベリの頭を撫でていた。

「トンベリ、眠いのかな?」
「いつもはもう少し早く来るだろう?」

早く来る、とはナマエのこと。
たまたま今日はやることが山積みで、いつもクラサメの部屋を訪ねる時間帯より1時間程遅くなっていた。

「ナマエに会うのを、毎日楽しみにしてるみたいだからな」
「そっか……ごめんねトンベリ?」

「遅くなってごめんね」とクラサメの腕の中にいるトンベリのほっぺを指の背で撫でる。すると喜んでくれたようで、表情は変わらないが雰囲気でなんとなくわかった。
トンベリを抱くクラサメに向かい合いしばらくナマエも彼の頬を撫でていた。クラサメに抱かれて温かいのだろう、うとうとと船を漕ぎ始めるトンベリ。更に頬を撫でるナマエの手の心地好さから少しすると規則正しい寝息が聞こえてきた。

「眠った……のかな?」

そっと手を退けるとクラサメもトンベリを彼専用のベッドへと運んでやる。
なんだかそんな行動が微笑ましくて胸が温かい。ナマエの口元には自然と笑みが浮かんでいた。

「悪いな。今朝目覚めたのが早かったらしいんだ」

そう言うとクラサメは徐にソファーへ腰を下ろした。ぽん、と横を軽く叩かれてナマエも彼の隣に寄り添った。

「あ、淹れてきたのココアです」

また忘れそうになっていた自分のカップを手繰り寄せて取っ手を掴んで口元へそれを運ぶ。一口飲み込むと微かな甘さが口の中に広がりじんわりと体の芯が暖まるようだった。

「クラサメさんのはあんまり甘くなくしてあります」
「ありがとう」

チラリとクラサメを覗き見てみるが特に何もない。持っていたカップをローテーブルに再び戻し、ナマエはクラサメの肩に頭を預けてみた。

「ねー、クラサメさん」

無意識だったが少し甘えた声が出たらしい。すぐにクラサメの手がナマエの髪に触れた。ゆっくりと、髪を梳く。
それは彼からの無言の返事で、話を聞く体勢に入ってくれているのだ。
少し勿体無かったがナマエは自分からその手を抜け出してどういうわけかクラサメに向き合った。ソファーの上なので正解にはクラサメの体は横向きだが。

「なんだ?」

そんなナマエの行動にはクラサメも不思議に思ったのか、口を開いた。少しくぐもって聞こえるマスク越しの彼の声。

「マスク、外していい?」

ほんの僅かだったがクラサメの瞳が大きくなった。気付かない振りをしてそのままじいっとクラサメを見つめるナマエ。
透き通ったエメラルドグリーンの瞳はとても綺麗でひんやりとしていて、それでいてあたたかい。

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