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『カトルさん』
*
水の月 3日。
朱雀領ルブルム国境付近。
「……早く、っ」
ぐらぐらと疲れきった足を叱咤し、険しい道のりを滑るように歩く。
頭上を幾つもの魔導アーマーや航空母艦が通り過ぎていく。懐かしい景色に目を奪われる暇などなく、フィアはただひたすらに目的地を目指し走った。
魔導院、ペリシティリウム朱雀へ。
***
――一月程前。
「フィア」
何をするでもなく、いつものように窓の外を眺めていた時だった。ミンミンと煩わしい蝉の声を遮って、カトルの声が室内に広がる。
「お帰りなさい」
朝から会議に出ていたカトルを気遣ってフィアが掛けた言葉は「お帰りなさい」だった。そうして彼に振り向くと、少し優し気な表情で口元を……しならせる彼はいなかった。
カトルの纏う雰囲気もいつもと違う。8年間毎日一緒に居るのだ。ちょっとした空気の違いにはすぐに気付いた。
「一月後、我がミリテス皇国は」
初々しい蝉の鳴き声がカトルの声を掻き消そうとする。――違う、勝手にフィアがそうしようとしているだけで。
「朱雀領ルブルムを経て、魔導院ペリシティリウム朱雀へ直接の進軍を決めた」
「………」
どこか事務的な、淡々としたカトルの言葉をフィアも心の端で受け止める。
いずれはこうなるとわかっていたこと。
そうなった場合、自分はどうなるのか考えたことはなかったけれど。
漠然とした現実を理解しながらも、イマイチこの広い執務室の中だけでは理解し難かった。もうフィアは、朱雀の候補生ではないのと同じだ。
「……お前にチャンスをやろう」
表情の無い顔でぼうっとカトルを見ていたフィアに、彼は漸く人間らしい声で一言告げる。その声でフィアもまた表情を取り戻す。
「チャンス……?」
呟くと、カトルはそっと目を伏せた。
「いつまでも、この狭い部屋で暮らすわけにもいかないだろう。朱雀に、戻るための、チャンスを」
どきん、と胸が高鳴った。
待ち焦がれていた時。勿論そうだ。
「只し、お前を運んでやれるのはルブルムの国境付近までだ。そこから先は下手に動けない。歩いて、1人で魔導院を目指すことになる」
「構いません、それでも……!」
それでも、クラサメくんに会えるなら。
そう出掛かった言葉は飲み込んだ。
ぎゅっと自分の胸元の服を掴む。
やっと、朱雀に帰れる。
いや、帰れるかもしれない。
窓の外を見た。
もう見慣れたミリテスの大都市。
聞こえるのはあの日、無情にも思えた蝉の鳴き声で。
「やはり、朱雀を選ぶのだな」
カトルは小さく洩らした。
*
進攻作戦当日。
朝早くにイングラムを発ったカトル率いる「日蝕」作戦の部隊は既にルブルムの国境付近に到着し、身を潜めていた。
彼らはカトル指揮の下、ペリシティリウム朱雀を洋上から奇襲し、電撃的に制圧するのが目的の部隊。臨時編成された第一空中機動軍にはルシ専用の魔導アーマーも装備されている。
そんな中、愛機ガブリエルにフィアを連れ込み、彼女との約束を果たそうとしていたカトル。2人に、沈黙が広がる。
「おまえを運べるのは、ここまでだ」
決して重たくは無い沈黙を破ったのはカトル。
フィアはじっと、何かを考えるようにカトルを見つめた。
陽はかなり高くなってきている。暗かった視界はうっすらと明るくなり、もうすぐ侵攻開始の合図が本軍から出されるだろう。あまり、彼らに時間はなかった。
「自分の足で行くには距離がある。作戦が開始されればそこはもう戦場だ。小競り合いや流れ弾に巻き込まれる可能性も無いとは言えん」
ましてやフィアは長い間前線に近づいてすらいないのだ。かつて魔導院が誇る1組のアギト候補生として戦場で戦っていた経験はあるとはいえ、もう8年のブランクがある。カトルが心配するのも無理はない。
「それでも、行くんだな」
強い眼差しがフィアを見つめる。
同じ様に強い意志を秘めた彼女の瞳はカトルのそんな視線を真摯に受け止めた。
「ありがとうございます、カトルさん」
堅かったフィアの表情が和らぐと、次いでカトルの口元も穏やかに歪んだ。
握ったままだったハンドルを離し、黒いグローブをはめた指先はゆっくりとフィアの頬に辿り着く。レザー越しに、カトルの手がフィアの顔を一瞬だけ包み込んだ。
「行け、フィア」
ガブリエルのハッチを解放する。
薄暗い森の中で気付く者はいない。
フィアはそっと、緑の地に足を着けた。
そうして、朝靄の中にゆらゆらと消えていく。決して、彼女は振り返らずに。
「此度の応報は如何に。この白の死神カトル・バシュタール、我が助けた命。……死ぬなよ、フィア」
薄れていくフィアの背を見つめながら、カトルの声は無機質なコックピットへゆらゆらと彷徨い、消えた。