「――……くん、ク……――!」
脇腹が酷く冷たかった。
体の自由も全く利かず、血液が凍ってしまったのではないかと錯覚して。
「――……メくん、……――!」
今まで自分が氷像にしてきた連中はこんな感覚を味わったのかと思うと少しだけ気の毒に思えた。少しだけ。
我ながらカッコ悪かったと思う。
謝罪すら聞いてもらえずに、最期に下した決断が彼女の手で自らの命を断ってもらおうだなんて。そうして全部、無くなってもらおうだなんて。
けれどもう一度彼女に話し掛けて、もう一度すべてを拒まれてしまうのが、なによりとても怖くて。
サクラの木は覚えている?
そんな小さな約束さえ聞けなかった。
自分の意思で離したその手をもう一度だけ握り締めることが出来るなら、魂の犠牲くらい厭わなかった。
「クラサメくんっ!クラサメくんっ!」
遠ざかる意識。
他の誰でもない自分の名を呼ぶ彼女。
ぎゅっと握り返された手のひらがとても愛しくて、あたたかくて、桜がひらひらと散るみたいにして自分の生も散るのだと。
「クラサメくん、クラサメくん!」
思ったのに。
急激に意識が呼び起こされて、脇腹が僅かに痛む。痛みでまた頭を殴られたような衝撃が全身を襲い神経が震える。
ただ左手だけ、ずっとあたたかくて。
「クラサメくん」
不思議なくらいゆっくりと。
朝、陽射しが漏れる部屋にいるように、新しい1日を迎えるみたいに、ふっと、意識が浮上した。
「…………フィア?」
重たい瞼を持ち上げて、クラサメが最初に目にしたのは拳を握り締めて自分の名を必死に呼ぶフィアの姿だった。
「クラサメ、くん……!」
酷く、驚いたような。安堵ともとれる表情でフィアは顔を歪めた。
「良かっ……わたし、クラサメくん」
視界に捉えたフィアの顔が歪んだかと思うと、その大きな瞳から透明な雫がじわじわと溢れ出す。拭ってやろうと持ち上げた右手は物凄く、重たく感じた。
「クラサメく、……死んじゃったら……どう、しよって、わたし」
ボロボロと涙が溢れていく。
拭っても拭っても追い付けなくて、目尻にそっと口付けてやりたかったけれど出来ない体にもどかしさを感じつつ、そっとフィアの頬を手で包んだ。
「私が死んだら、……全部忘れられたじゃないか」
そう、彼が死ねば彼女の苦しみはきっとすべて取り除かれたはずなのだ。
彼と過ごした日々も、彼を愛した気持ちも、約束した未来の続きも、桜の木も。
「私は、おまえを、フィアを傷付けた」
その事実だけは絶対に消えない。
こんなにも、思い続けて、大好きで、愛しくて、大切な彼女を。弱かった自分の心を幾ら責めても過ちは消えなくて。
自分の命の終わりが彼女の心の浄化になるなら、それを喜んで望むと言うのに。
――君は。
「い、ずるいよクラサメくん……」
彼女とて、信じてきた彼に裏切りとも取れるダメージを与えられ、いつしかいつも傍にいてくれた敵軍の男に慰めを求めて自軍を裏切ったのに。
「まだ、桜の花、……一緒に見てない」
「っ……」
抱き締めたかった。
出来なくて、もどかしくて。仕方がなしに彼女の手を強く握った。
「クラサメくんっ……」
フィアの頬を絶え間無く涙が伝う。
陽の光に照らされて、無邪気に笑う昔のままの彼女の笑顔が脳裏を過り、裏庭で約束を交わした日の風景が鮮明に瞼に浮かぶ。
咲かないサクラの木。
そのサクラの木が花を付けるのを見れた2人は、ずっと一緒に……
「好きだ、フィア」
2度目の言葉に、フィアは何度も何度も頷いた。揺らぐ視界にクラサメの顔をしっかりと捉えて、握られた右手の感触を確かめながら。
「わたしも、クラサメくんが、好き」
瞬間、入らない力を振り絞りクラサメはゆっくりと右手をフィアの後頭部に滑らせた。ぐっと引き寄せて、薄く色付く桜色の唇に自分のそれを重ねて。
何も言わずに、フィアもクラサメの肩に手を置いた。
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