「え、ちょっと待って、ほんとに、ほんとに、フィアくん?」
カヅサは眼鏡のブリッジを押し上げてぱちぱちと目を瞬いた。そうして彼女を上から下まで舐め回すように見つめて、エミナに脇腹をどつかれたのだ。
「っエミナ君、……!」
「あはは、バカヅサは相変わらずだね」
楽しそうに笑うフィアのカヅサへの特殊な愛称で彼はようやく実感が沸き上がって来たらしい。
「フィア君!ああ良かった、心配してたんだよ僕もエミナ君も……」
「クラサメ君も」そう言い掛けてカヅサはふと冷静になった頭でその名を紡ぐことをやめた。別に、他意は無かった。
「でも本当に、本当に良かった。みんな心配してたのは事実だし。フィアが帰って来てくれて……フィア〜!」
うわーん、とでも泣き出しそうなエミナは軍令部で散々フィアを抱き締めたのに飽きたらず、また力一杯フィアを抱き締めた。
「え、エミナも変わらないね」
熱い抱擁に苦笑しながらも、フィアもエミナを抱き返す。こうやって純粋に自分の帰りを待っていてくれたのはとても嬉しかった。
(でも)
カヅサが使っているらしい、クリスタリウムの小さな研究室。
心に出来た隙間が、虚しかった。
*
「次の0組の作戦ではサキト武官に白虎の土地潜入まで先導して貰おう」
今朝方、軍属の武官に言われた言葉にクラサメは頭を抱えたくなった。
魔導院解放戦からまだ日がそう経たない頃、0組の数名を選抜してクリスタルジャマーの研究データを壊すと言う潜入作戦が立てられていた。
作戦の指揮官は勿論クラサメであったが、白虎の首都イングラムに近い場所への潜入のため、長年白虎に滞在していたフィアが他にも選ばれたのだ。そして今。
(……フィア)
作戦を控えた前夜、誰もいないブリーフィングルームでクラサメは1人落ち着かないまま壁に背を預けていた。
もうすぐ、来るのだ。
彼女、フィアがこの部屋に。
8年ぶり。待ち焦がれて止まなかった彼女との再会はとても呆気の無いもので。
同期の友人、エミナがフィアを抱擁しているのをまるで第3者の視点から眺めているだけだった。彼女も決して自分からクラサメに歩み寄ろうとはしなかった。
(あの日、――)
やはりあの日のことを恨まれているのだろうか。
カリヤはフィアを紹介する時に“密偵として白虎に潜伏していた”と言っていたが、それは都合の良い嘘だ。
勿論あの場でその嘘に気付けたのはエミナとクラサメ、そしてサユだけだが。
捕虜として捕らえられていた、と言われるよりああ言った方が丸く収まるのだろう。それは別に気にしていない。
ギィっと、扉を引く音でクラサメははっと顔を上げた。慌てて扉の方に目を向ければ。
「あ、ごめんなさい。待たせちゃった」
苦笑いして扉をパタリと閉めるフィアの背中を視界に捉えた。
懐かしすぎる彼女の声。
少し大人びた顔。
「……フィア、」
「さてクラサメくん、あ……クラサメ士官。遅くなってすみません。ブリーフィング始めましょう」
“クラサメ士官”
そう言い直された瞬間、頭を鈍器で殴られたようだった。公私混同なんてらしくない。彼女の言う通りさっさとブリーフィングを始めればいい。さっさと始めてさっさと終わらせて。
「……一先ず明日はわたしが0組の候補生達をイングラム付近まで誘導します」
何も言葉が浮かばず黙っていると、痺れを切らしたフィアが作戦ボードの上の紙切れを見ながら話し出した。
クラサメは、彼女の言葉なんか頭に入らずただじっとフィアを視界に入れているだけだった。
「と言っても、わたしもそこまでイングラムに詳しいわけではないから。100パーセントの保証は出来ないけど」
彼女は、フィアは。
今、何を思っているのだろうか。
「……、と言うことで良いかな?」
肯定を求める彼女の視線にクラサメは再びはっとする。顔を上げるとまた苦笑いするフィアの表情があり。
「わたしの話、聞いてましたかクラサメ士官?」
「……悪い」
あはは、と懐かしい笑い声が耳を掠めて気が可笑しくなりそうだった。
「具合でも悪いんですか?あ、疲れてるのかな。隊長って、大変そうだもんね」
何も言えないクラサメ。
フィアは気にした素振りを見せず踵を返し入って来たばかりの扉へ歩み出した。
いや、入って来たばかりのように感じたのはクラサメだけかもしれない。
「ま、取り敢えず向こうに行かないとわからないから。それは臨機応変に」
フィアがノブに手を掛けた。
「じゃあ、おやすみなさい。クラサメ士官。明日の作戦、無事に……」
「フィア」
見逃さなかった。
呼び掛けた一瞬、フィアの肩が震えた。
と同時に、酷く後悔した。
「……おやすみなさい」
「っフィア!」
目を、逸らされた。
パタンと閉まった扉。
しんと静まり返った空間。
最初に彼女と視線が絡んだ時に感じた違和感は、気のせいではなかった。
何かが、おかしい。
扉の外。泣き崩れそうになるのを唇を噛み締めて堪えるフィアの姿を、クラサメが知ることは無かった。
幾ら呼んでも届かない彼女の名。
目の前にいたのに、返事は無くて。
空いた隙間は、ただ広がった。
Continued..