慌ててラウンドトレイで顔を隠して焦る君が何より堪らなく愛しくなった瞬間。
「あ、…の」
どうしようか悩んでいたのか少し沈黙があってから小さな声が聞こえて、それが君の名前だとわかった。けれど悔しいことに日本語に堪能な方ではない。失礼だと思ったけれどもう一度聞き返すと今度はゆっくりはっきりとした声が降ってきた。
「七瀬」
「そうです、」
聞いたままの音を声に出して空気を震わせると少し嬉しそうに七瀬は笑った。
***
「いらっしゃ…あ、レオン」
「おはよう」
パタパタとこちらにやって来た七瀬はたった今ドアベルを鳴らしたのが俺だとわかると柔らかく微笑んで迎えてくれた。
彼女と偶然出逢って数週間。ちょうど仕事に向かう道すがらにカフェがある為、朝は大体ここに寄るのが日課になっていた。
「おはようございます。
今日もお早いんですね。」
君に会いたいからだ、なんて言葉はまだ暫くは胸に仕舞っておこうか。
「いつもありがとうございます」
そしてこうやって暇の出来た彼女と会話しながらサンドウィッチを口に運ぶのも日課になっていた。勿論、長期任務やもっと朝早い時間帯の時はそれが叶わないのだけれど。朝から七瀬の柔らかい笑顔を見るとどうも一日機嫌良く過ごせる。
柑橘系の香りが広がってくる。数週間では相変わらず紅茶についてなんて詳しくわかっていないけれど、彼女が喜んで毎日違う茶葉を紹介してくれるのを見てるのが好きだった。きらきらと輝いていて本当に眩しいくらい、七瀬の笑顔は綺麗だった。
「今日は定番のアールグレイです。アールグレイはフレーバーティーで、これはうちのお店独自のブレンドなんですよ」
世界どこを探しても此処にしかないと言うことか。なんとなくそう言われると味が楽しみになる。まあ、そんなに紅茶に肥えた舌を持っているわけではないから大体何がどうかなんて説明出来たりしないけれど。
「七瀬がブレンドしたのか?」
「畏れ入ります」
クスクスと七瀬が笑って見せる。
マスターがカウンターの中で挽く珈琲豆の音と焙煎された香り。朝から散歩に来たついでにこの店に寄ってカウンターで珈琲を啜るのが日課になった老人や。たまに来る老夫婦。いつの間にかそれが全部日常になっていて、偉く落ち着いたもんだなと自分に感心した。
「…、美味い」
「ほんとですか!」
そんなこと考えながら一口飲んだそれは思わず声が出てくる程ほっとする味だった。珍しい、俺でもわかった。紅茶なんてイングランドやウェールズの方でしか飲まないもんだなんて馬鹿にしてたこともあったけれど、こうも変わるもんなんだな。それは勿論七瀬という存在のおかげが大半なんだろうが。アシュリーも彼女のこの笑顔の魅力にとりつかれたんだろうか。
「実はそれ、レオンに出すのがこの店で初めてなんです」
何を言い出すのかと思えば。
両手のひらをくっ付けて少し照れ臭そうに七瀬がはにかむ。なんだそれ、無意識なのか?
「アシュリーにもまだ出してないんで、内緒ですよ?」
人差し指を口元に持っていく無駄のない仕草が凄く目に焼き付けられる。綺麗に磨かれた女性らしい指先がふっくらした唇にくっついている。
「バレたら怒られそうだな」
「あ、だから内緒ですってば」
ラウンドトレイを抱えて焦る七瀬。表情豊かな彼女は飽きない。これから暫くヨーロッパの方に飛ばされると言うのに、その日の朝はとても心が穏やかだった。
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